そこに蘭軒の身上に重要なる事のあるのを見出す。
 阿部侯|正精《まさきよ》は此年文政二年十一月二十七日に、遂に蘭軒をして儒にして医を兼ぬるものたらしめたのである。「十一月廿六日私儀明廿七日被為召候所、足痛に付名代皆川周安差出候段御届申上候。廿七日、前文之通周安差出候所、私儀御儒者被仰付候、医業只今迄之通と被仰付候。月並御講釈、学文所出席は御用捨被成下候。」一旦表医師となつて雌伏した蘭軒が、今や儒官となつて雄飛するに至つた。慣例を重んずる当時にあつては、異数と謂はなくてはなるまい。
 十二月二十三日に蘭軒は例に依つて医術申合会頭としての賞を受けた。
 此年伊沢宗家の主人|信美《しんび》が歿した。伊沢|徳《めぐむ》さんの繕写する所の系図には、四月二十一日歿すとしてある。蘭軒手記の勤向覚書には、閏《じゆん》四月六日に伊沢玄安が歿したために忌引をすると云つてある。玄安は信美の通称で、その終焉の日を殊にするは、分家が阿部家に届けた日と、宗家が黒田家に届けた日との差ではなからうか。
 わたくしは伊沢信平さんに請うて宗家の過去帳を検してもらつた。「御申越しにより過去帳取調候処、左之通に御座候。五代目玄安、称仙軒徳山信美居士、文政二年己卯年四月廿二日卒。」名は信美、通称は玄安で、歿日は四月二十二日とするものに従ふべきであらう。
 小島氏では此年宝素|尚質《なほかた》の妻山本氏が六月十九日に歿した。尋で尚質の納れた継室が一色氏で、即ち春沂《しゆんき》の母である。
 頼氏では山陽が四十歳になつた。「平頭四十驚吾老、何況明朝又一年」は其除夜の詩句である。田能村竹田が此秋江戸に来た。
 此年蘭軒四十三歳、妻益三十七歳、榛軒十六歳、常三郎十五歳、柏軒十歳、長六歳であつた。

     その百六

 文政三年春は江戸が特に暖であつたらしい。前年の十二月中雪が一度も降らなかつたことが、蘭軒の「庚辰元旦」の詩に見えてゐる。「三冬無雪自軽暄。今歳元旦春色繁。計得出遊宜火急。梅荘恐没一花存。」雪は正月の初に降つた。元旦と人日《じんじつ》との詩の間に、「雪日偶成」の作が介《はさ》まつてゐる。神辺の元旦はこれに反して雪後であつた。茶山の律詩に叙景の聯がある。「流漸汨々野渠漲。残雪輝々林日斜。」
 此年の初には蘭軒は殆《ほとんど》戸外に出でずにゐたらしい。「豆日草堂小集」の詩に、「春至未趨城市間、梅花鳥哢一
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