いだ。活版本続徳川実記に左近将監忠邦の傍《かたはら》に「恐和泉守之誤」と註してある。しかし和泉守忠光は忠邦の父で、忠邦は部屋住の時式部と云ひ、叙爵せられて左近将監と云つた。傍註が誤であらう。長谷川雪旦は長昌が唐津城に赴く時、※[#「馬+芻」、第4水準2−93−2]騎隊裏《すうきたいり》の「虎頭」となつて、筆を載せて行つたのである。
 次に松石双古堂の詩がある。これは蘭軒が狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に代つて作つたものである。「遙寄題松石双古堂。拝石詞臣已作顛。愛松隠士漸将仙。高園双種殊堪賞。鎮壌凌雲二百年。」「遙寄題」と云ふから、園は江戸では無かつただらう。園の主人の誰なるを知らない。
 冬に入つては十月十八日に「雪日」の七絶二首があるのみである。わたくしは詩集以外に於て、十二月二十三日に蘭軒が医術申合会頭たる故を以て、例年の賞を受けたことを見出した。集には歳杪《さいせう》の作が無い。これに反して菅茶山は吉村大夫の遠く白河関の図を寄するに会した。「歳杪得吉村大夫寄恵白河関図、賦此以謝」の七律に、「七十一齢年欲尽、三千余里夢還新」の一聯がある。吉村氏、名は宣猷《せんいう》、又右衛門と称した。白川の大夫である。
 此年戊寅は茶山の京阪に遊んだ年である。吉野から江戸の岡本花亭に詩を寄せた。「誰知当此夜。身在此山中。想君亦尋花。歩月墨水東。月自照両処。花香不相通。恰如心相思。遊迹不可同。」何ぞ料《はか》らむ、これは花亭が書を上《たてまつ》つて職を罷めた三月であつた。
 頼氏では此年山陽が西遊稿を留めた。茶山と山陽との友|登々庵武元質《とうとうあんたけもとしつ》が二月二十四日に歿した。これは茶山の輙《すなは》ち信ずることを欲せざる凶報であつた。「遠郷恐有伝言誤。将就親朋看訃音。」
 此年蘭軒は四十二歳、妻益は三十六歳、子女は榛軒十五、常三郎十四、柏軒九つ、長五つであつた。
 文政二年の元旦には、蘭軒は江戸にあつて、子弟門生の集つて笑語するを楽み、茶山は神辺にあつて、閭里故旧の漸く稀になり行くを悲んだ。蘭軒の「己卯元日」はかうである。「山靄初晴旭日紅。纔斟椒酒意和融。未聞黄鳥新歌曲。春色已生人語中。」茶山の「元日口号」はかうである。「村閭相慶往来頻。老眼偏驚少識人。政爾陽和帰四野。誰回身上旧青春。」
 九日は江戸の気候が稍《やゝ》暖《あたゝか》であつたものか
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