第3水準1−85−76]斎翁」の下《もと》にある填註のみは括弧内に入れた。

     その九十五

 菅茶山の書牘に許多《あまた》の人名の見えてゐることは、上《かみ》に写し出した此年文化十四年八月七日の書に於ても亦同じである。
 狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は此|比《ころ》隠居した。恐くは此年隠居したと云つても好からう。わたくしは世に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎詳伝のありやなしやを知らない。わたくしの知る所は只松崎|慊堂《かうだう》の墓碣銘《ぼけつめい》のみである。慊堂はかう云つてゐる。「翁年四十余。謂曰。児已長。能治家。我将休矣。遂卜築浅草以居。扁曰常関書院。署其室曰実事求是書屋。又号※[#「虫+覃」、第4水準2−87−88]翁。皆表其志也。」所謂《いはゆる》「年四十余」は年四十三に作つて可なることが、此書牘に徴して知られるのである。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の退隠の年を明にすると云ふことは、わたくしの以て大に意義ありとなす所である。若し別に詳伝がないとすると、これも亦一の発見である。
 湯島の狩谷の店には懐之《くわいし》、字《あざな》は少卿《せうけい》が津軽屋三右衛門の称を襲《つ》いですわつたのであらう。慊堂が「風度気象能肖父」と云つてゐるから、立派な若主人であつたかとおもふ。しかし年は僅に十四であつた。安政三年に五十三歳で歿した人だからである。
 書牘には論語を送られた礼を※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎にも伝へてくれと云つてある。論語は市野迷庵の覆刻した論語集解であらう。迷庵の所謂「六朝経書、其伝者世無幾」ものであらう。蘭軒は初め短い手紙を添へて茶山に此本を見せに遣つた。尋《つい》で「あれは献上する」と云つて遣つた。茶山は蘭軒に其礼を言つて、同時に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎にも礼を言つてくれと云つておこせたのである。わたくしは此間の消息を明にするために、覆刻本の序跋を読んで見たくおもふ。しかし其書を有せない。わたくしは市野|光孝《くわうかう》さんの許《もと》で其書を繙閲して、刻本の字体を記憶してゐるのみである。想ふにこれも亦所謂珍本に属するものであらう。
 今一つ注目すべきは※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の辛巳西遊の端緒が、早く此年文化十四年に於て見《あらは》
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