れてゐる事である。茶山は「晋帥が墓にならぬうちに被成よ」と云つて催促してゐる。此より後四年にして※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は始て志を遂げ、茶山を神辺に訪ふことを得た。
 次に松崎慊堂の名が茶山の此書牘に見えてゐる。しかも其事は※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に連繋してゐる。此所の文は少し晦渋である。「書中に御坐候。松崎ほめ候へ共、簾はいまだ知音を得ず候よし申参候。千載の知己をまつの外せむすべなかるべし。」茶山は※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に院之荘の簾を贈つた。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の書中に此簾の事が言つてある。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は簾を実事求是《じつじきうし》書屋に懸けて客に誇示してゐる。しかし慊堂一人がこれを歎美したのみで、簾は人の称讚を得ないと云つてある。然らば簾は知己を千載の下《しも》に待つ外あるまい。わたくしは読んで是《かく》の如くに解する。
 香川景樹と菅茶山との関係も亦此書牘に由つて知られる。寧関係の無いことが知られると云つた方が当つてゐるかも知れない。頼氏には深く交つた景樹も、菅氏とは相識らなかつたのである。茶山は四十年前に午《ひる》萎《しを》れぬ※[#「さんずい+章」、第3水準1−87−8]州産の牽牛花《けんぎうくわ》を栽培してゐた。景樹が三十年前に其種子を得て植ゑ、歌を詠んだ。茶山は「私はしる人にあらず、伝へゆきしなり」と云つてゐる。
 茶山が此逸事を筆に上せたのは、蘭軒が江戸に於ける朝顔の流行を報じたからである。蘭軒はこれを報ずるに当つて、詩を寄示した。集に載する所の「都下盛翫賞牽牛花、一絶以紀其事」の作である。「牽牛奇種家相競。不譲魏姚分紫黄。請看東都富栄盛。万銭購得一朝芳。」
 文化十四年より三十年前は天明七年である。朝顔の種子《たね》が菅氏から香川氏に伝はつた時、文字の如く解すれば、茶山が四十歳、景樹が僅に二十歳であつた筈である。しかしわたくしは此推定に甘んぜずに、更に討究して見ようとおもひ立つた。

     その九十六

 菅茶山の書牘中にある香川景樹の朝顔の歌は、わたくしの素人目を以てしても、分明に桂園調で、しかも第五句の例の「けるかな」さへ用ゐてある。わたくしは景樹の集に就いて此歌を捜さうとおもつた。然るに竹柏園主の家が遠くもない処にある。多
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