は四十歳、妻益は三十四歳、子女は榛軒十三歳、常三郎十二歳、柏軒七歳、長三歳であつた。
文化十四年には蘭軒が「丁丑新歳作」と題する七律を遺してゐる。「君恩未報抱※[#「さんずい+冗」、第4水準2−78−26]痾。暖飽逸居頭稍※[#「白+番」、7巻−186−下−14]。梅発暄風香戸※[#「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1−87−69]。靄含春色澹山阿。好文化遍家吟誦。奏雅声調人暢和。新歳不登公館去。椒樽相対一酣歌。」一二七の三句があつて病蘭軒の詩たるに負《そむ》かない。「頭稍※[#「白+番」、7巻−187−上−3]」は恐くは実を記したものであらう。頸聯には自註がある。「註云。我公好学多年。群臣亦大化。他諸侯之国。如我藩者絶少矣。去年来公又以暇日。時或習古楽。有侍臣数人亦学之者。邸中※[#「瓜+炮のつくり」、7巻−187−上−6]竹之声。頗使人融雍。故五六及之。」阿部侯|正精《まさきよ》は丙子の年から雅楽を習ひはじめたと見える。
菅茶山は此年正月二十一日に蘭軒に与ふる書を作つた。此書も亦饗庭篁村さんの蔵儲中にある。
「新禧|弥《いよ/\》御安祥御迎可被成遙賀仕候。晋帥病懶依然御放念可被下候。去年|下宮大夫《しもみやたいふ》臥病の節は御上屋敷迄も御出之由、忙程之事出来候へば大慶也。追々脚力も復し可申やと奉存候。只私がごとくよりによりたる年浪は立帰る期《ご》なし。御憐察可被下候。」
「扨津軽屋へ約束いたし候院之荘之|古簾《ふるすだれ》、旧冬やう/\と得候故、船廻しに而《て》進《しんじ》候。御届可被下候。後醍醐帝御旅館|某《それがし》が家に、今簾をかけ候。これは須磨などに行在処《あんざいしよ》の跡とてかけ候を見及たるや。即備後三郎が詩を題せし所也。作州津山《さくしうつやまより》四五里|許《ばかり》有之所のよし、院之荘は其地名也。これは十四年前備前之人を頼置候。度々催促すれども得がたし/\と申而居候故、もはやくれぬ事かと思切ゐ申候処、去冬忽然と寄来候。作州より三十里川舟にて岡山へ参、夫より洋舟《なだふね》にて三十里、児島を廻る故遠し、笠岡てふ所へ参、そこより三里私宅へ参候へば、物は軽く候へども、世話は世話也。銭は一文もいらず候。此世話|計《ばかり》をかの十符《とふ》の菅菰《すがごも》之礼と被仰可被下候。」
「扨市野など不相替会合可有之遙想仕候。梧堂はいかが。杳然せうそこなし
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