齟齬は、その二つのものの間にさへ存してゐる。これは直卿撰の行状に影響した或物が、早く善卿撰の先祖書に影響し、延《ひ》いて直温撰の先祖書にも及んだのであらう。先祖書の寛保二年錦橋八歳は享保二十年乙卯生に符合してゐる。これが安永前の記事である。文化十三年八十三歳は生年より推算して一歳の過多を見る。これが安永以後の記事である。先祖書を受理する慕府刀筆の吏も、一々年次と年齢とを験するために算盤を弾きはしなかつたと見える。
以上記する所に就いて考ふるに、錦橋が年齢の牴牾《ていご》は、どうも錦橋自己より出でてゐるらしい。錦橋は江戸に来た比から、毎《つね》に其|齢《よはひ》に一歳を加へて人に告げた。それが自ら作つた先祖書に上り、養子霧渓の撰んだ行状にも入つたのであらう。
その九十
わたくしは池田錦橋の死を語り、又錦橋並に其一族の事蹟に幾多未解決の疑問のあることをも言つた。その主なるものは錦橋の年齢、其廃嫡子京水の出自等である。
錦橋の末裔鑑三郎さんと姻戚窪田寛さんとの、わたくしに借覧を許した先祖書は、此家の事を徴するに足る重要文書たることは勿論である。しかしわたくしは此に由つて一の難路を通過した後、又前面に一の難路の横はつてゐるのを望見するが如き感をなしてゐる。
向島嶺松寺の池田氏の諸墓には、誌銘が刻してあつたさうである。推するに錦橋の墓誌は今存する所の行状と大差なからう。これに反してわたくしの切に見むことを願ふものは京水の墓誌である。曾て富士川游さんは其一部を抄写したが、わたくしは其全文を見むことを欲する。且何人が撰んだかを知らむことを欲する。然るに其碑碣は今亡くなつてしまつたのである。
錦橋の墓は嶺松寺にあつたものが既に滅びても、其名は鑑三郎の建てた合墓《がふぼ》に刻まれてゐる。又黄蘗山にも墓碑を存してゐるさうである。疇昔の日無名氏があつて、わたくしに門司新報の切抜を寄せてくれた。文は何人の草する所なるを知らぬが、想ふに檗山紀勝《はくさんきしよう》の一節であらう。「独立《どくりふ》の塔に隣りて池田錦橋の墓あり。この人は別に檗山に関係あるものにあらねど、氏の祖父は周防国|玖珂郡《くがごほり》通津浦《つづうら》の人にして、岩国に於て独立に就いて痘科の秘訣を伝へて家学とし、氏に至りて幕府の医官たり。独立|化後《けご》その塔は多分氏の建立せしものならむ。氏の墓
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