既に先祖書を得た今、わたくしは未だこれを得なかつた昔に比ぶれば、暗中に一|穂《すゐ》の火を点し得た心地がしてゐる。しかし許多《あまた》の疑問はなか/\解決するに至らない。前に挙げた京水出自の事の如きは其一である。
錦橋は此年に歿した。しかしその歿した時の年齢が不明である。わたくしは渋江抽斎の伝に於て、霧渓所撰の錦橋行状に年齢の齟齬を見ることを言つた。そして生年より順算して推定を下さうとした。今先祖書を得た上はこれを覆覈《ふくかく》して見なくてはならない。
行状を見るに、錦橋は「以享保乙卯五月二十二日生」としてある。享保二十年錦橋生れて一歳となる。次に「宝暦壬午春、携母遊于安藝厳島、時年二十八」としてある。宝暦十二年二十八歳となる。次に「安永丁酉冬、(中略)抵于浪華、(中略)年四十」としてある。安永六年四十三歳であるべきに、四十歳と書してある。齟齬は此辺より始まる。次に「寛政壬子秋、游于京師、(中略)年五十五」としてある。寛政四年五十八歳であるべきに、五十五歳と書してある。次に「丁巳正月来于東都、年六十四」としてある。寛政九年六十三歳であるべきに、六十四歳と書してある。最後に「文化丙子九月六日病卒、享年八十有三」としてある。文化十三年八十二歳であるべきに、八十三歳と書してある。要するに安永中より寛政の初に至る間三歳を減じ、寛政の末より一歳を加へ、遂に歿年に一歳を加ふるに至つたのである。そこでわたくしは幹枝《かんし》と年歯との符合するものを重視し、生年に本づいて順算することゝした。即ち歿年は八十三にあらずして八十二となるのである。
然らば直温所撰の過去帖は奈何《いかに》。過去帖は錦橋の父母妻子の齢《よはひ》を具《つぶさ》に載せながら、独り錦橋の齢を載せない。直温は夙《はや》く旧記の矛盾に心付いたので、疑はしきを闕いで置いたのではなからうか。
新に得たる直温所撰の先祖書は奈何。先祖書には、年次若くは干支と年齢とを併せ載せた処が僅に二箇所あるのみである。「八歳之時父(錦橋父)正明病死仕候」と云ひ、「池田杏仙正明、寛保二戌年正月十六日病死」と云ふのが一つである。「同年(文化十三子年)十月晦日病死仕候、年八十三歳」と云ふのが二つである。歿した月日の行状と異つてゐるのは、官府に呈する文書には届出の月日を記したためであらう。
唯二箇所である。而して年次若くは干支と年齢との
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