1−90−30]毛花卉。用筆設色倶妍麗。又画人物。観関壮穆像。頗雄偉。女史阿箏語予曰。玉蘊容姿※[#「梟」の「木」に代えて「衣」、第3水準1−91−74]娜。其指繊而秀。如削玉肪。其画之妙宜哉。常愛古鏡。襲蔵十数枚。茶山杏坪諸老及山陽各有題贈。」竹田は氏を書して名を書せない。しかし茶山集に「玉蘊女画史」と称してゐるのを見て、柬牘《かんどく》の尾道女画史におもひくらべ、玉蘊の平田豊なるべきを推測したのである。
わたくしは師友画録を読んで、今一つ推測を逞しうした。それは玉蘊は或は草香孟慎《くさかまうしん》の族ではなからうかと云ふことである。竹田の記する所に拠れば、玉蘊は居る所に※[#「匚<扁」、第4水準2−3−48]して鳳尾蕉軒《ほうびせうけん》と曰つたさうである。然るに頼春水の集壬子の詩に、「春尽過尾路題草香生鳳尾蕉軒」の絶句がある。玉蘊と孟慎とは、同じく尾道の人であつて、皆鳳尾蕉軒に棲んでゐた。若し居る所が偶《たま/\》其名を同じうするのでないとすると、二人の間に縁故があるとも看られるのである。
此段を書し畢《をは》つた後に、わたくしは林中将太郎さんの蔵する玉蘊の画幅に「平田氏之女豊」の印があることを聞いた。玉蘊の名は果して豊であつた。次でわたくしは茶山集中に「草香孟慎墓」の五律があるのを見出した。其七八に「遺編托女甥、猶足慰竜鍾」とある。女甥《ぢよせい》は豊ではなからうか。
茶山は此書を作るに当つて、蘭軒の親族のために一々言ふ所があつた。
先づ榛軒がためには、父蘭軒に子を教ふる法を説いてゐる。「たんと御叱被成まじく候。あまりはやく成就いたさぬ様に御したて可被成候。」至言である。茶山は十二歳の棠助《たうすけ》のためにこれを発した。
飯田氏|益《ます》に対しては、茶山は謝辞を反復して悃※[#「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1−86−31]《こんくわん》を尽してゐる。江戸を発する前に、まのあたり告別することを得なかつたと見える。
側室さよに対しては、「さしつかひ候御せわ」を謝し、又「御すこやかに御せわなさるべく」と嘱してゐる。前の世話は客を※[#「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1−86−31]待する謂《いひ》、後の世話は善く主人を視る謂である。「さしつかひ候」は耳に疎《うと》い感がある。或は当時の語か。
「麻布令兄様御女子御両処へ宜奉願上候。」此
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