た。五世信美は歯医者となり、信階の女、蘭軒の姉にして、豊前国福岡の城主松平筑前守|治之《はるゆき》の夫人に仕へてゐた幾勢《きせ》に推薦せられて、黒田家に召し抱へられ、文政二年四月二十二日に歿した。法諡《はふし》を称仙軒徳山居士と云ふ。此より後宗家伊沢は世《よゝ》黒田家の歯医者であつた。六世|信全《のぶかね》は桃酔軒と号した。天明三年に生れ、文久二年|閏《うるふ》八月十八日に八十一歳で歿した。七世|信崇《のぶたか》は巌松院道盛と号した。天保十一年に生れ、明治二十九年一月十三日に五十七歳で歿した。その生れたのは信全が五十八歳の時である。八世が今の信平さんである。
分家伊沢の初世信階は本郷に徙《うつ》つた後、安永六年十一月十一日に一子|辞安《じあん》を挙げた。即ち蘭軒である。蘭軒は信階の最初の子ではなかつた。蘭軒には姉幾勢があつて、既に七歳になつてゐた。推するに早く鳥居坂にあつた時に生れたのであらう。此子等の母は家附の女《むすめ》曾能《その》である。蘭軒の生れた時、父信階は年三十四、母曾能は二十八、家系上の曾祖父にして実は外祖父なる信政は年六十六であつた。
安永七年に信階の長女幾勢は、八歳にして松平治之の夫人に仕ふることになつた。夫人名は亀子、後|幸子《さちこ》と改む、越後国高田の城主榊原式部大輔政永の女《ぢよ》で、当時二十一歳であつた。治之は筑前守継高の養子で、明和六年十二月十日に家を継いだのである。
天明二年に幾勢の仕へてゐる黒田家に二度まで代替《だいがはり》があつた。天明元年十一月二十一日に治之が歿し、此年二月二日に養子又八が家を継いで筑前守|治高《はるたか》と名告《なの》り、十月二十四日に病んで卒し、十二月十九日に養子雅之助が又家を継いだのである。雅之助は後筑前守|斉隆《なりたか》と云つた。
幾勢の事蹟は、家乗の云ふ所が頗る明ならぬので、わたくしはこれがために黒田侯爵を驚かし、中島利一郎さんを労して此《かく》の如くに記した。中島さんの言に拠るに、墓に刻んである幾勢の俗名は世代《せよ》である。後に更めた名であらうか。又家乗が誤り伝へてゐるのであらうか。
天明四年に信階は養祖父を喪つた。隠居信政が此年十月七日に七十三歳で歿したのである。法諡《はふし》を幽林院|岱翁良椿《たいをうりやうちん》居士と云ふ。長谷寺の先塋《せんえい》に葬られた。新しい分家には四十一歳
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