の養孫信階、三十五歳の其妻、八歳の蘭軒を遺した。又宗家に於ては孫信美が已に二歳の曾孫|信全《のぶかね》を設けてゐた。
信政の妻大久保氏|伊佐《いさ》は又|貞光《ていくわう》の名がある。按ずるに晩年剃髪した後の称であらう。伊佐は享和三年七月二十八日に歿した。法諡を寿山院湖月貞輝大姉と云ふ。伊佐の所生《しよせい》には親に先《さきだ》つた信栄、信階の妻曾能の外、猶一子金十郎があつた。
信階は冢子《ちようし》蘭軒のために早く良師を求めた。蘭軒が幼時の師を榊原|巵兮《しけい》と云つた。蘭軒の「訳女戒跋」に、「翁氏榊原、姓藤原、名忠寛、字子宥、為東都書院郎、致仕号巵兮云」と云つてある。跋は享和甲子即文化紀元の作で、「翁歿十有三年於茲」と云つてあるから、巵兮は寛政四年に歿したと見える。蘭軒は尋《つい》で経を泉豊洲に受けた。按ずるに彼は天明の初、此は天明の末から寛政に亘つての事であらう。
泉豊洲、名は長達、字《あざな》は伯盈《はくえい》である。其家|世《よゝ》江戸に住した。先手《さきて》与力泉斧太郎が此人の公辺に通つた称である。豊洲は宝暦八年三月二十六日に茅場町に生れ、文化六年五月七日に五十二歳で歿した。父は名が智高、通称が数馬、母は片山氏である。
豊洲は中年にして与力の職を弟|直道《なほみち》に譲り、帷《ゐ》を下《くだ》し徒《と》に授けたと云ふ。墓誌に徴するに、与力を勤むることゝなつてから本郷に住んだ。致仕の後には「下帷郷南授徒」と書してある。伊沢氏の家乗に森川宿とあるのは、恐くは与力斧太郎が家であらう。所謂《いはゆる》郷南《きやうなん》の何処《いづく》なるかは未だ考へない。天明寛政の間に豊洲は二十四歳より四十三歳に至つたのである。
豊洲は南宮大湫《なんぐうたいしう》の門人である。二十一歳にして師大湫の喪に遭つて、此より細井平洲に従つて学び、終に平洲の女婿となつた。要するに所謂叢桂社の末流《ばつりう》である。
その十一
わたくしは単に蘭軒が豊洲を師としたと云ふよりして、わざ/\溯※[#「さんずい+回」、第3水準1−86−65]《そくわい》して叢桂社に至り、特にこれを細説することの愚なるべきを思ふ。しかし蘭軒の初に入つた学統を明にせむがために、敢て此に人の記憶を呼び醒すに足るだけのエスキスを插《さしはさ》むこととする。
参河国加茂郡|挙母《ころも》に福尾
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