して、家を信栄に譲つたらしい。仮に信政が五十歳で隠居したとすると、信栄の家督相続は宝暦十一年でなくてはならない。
三世信栄は短命であつたらしい。明和五年八月二十八日に父信政に先《さきだ》つて歿し、長谷寺に葬られた。法諡《はふし》を万昌軒久山常栄信士と云ふ。信政は時に年五十七であつた。
信栄は合智《がふち》氏を娶《めと》つて、二子を生ませた。長が信美《のぶよし》、字《あざな》は文誠、法名称仙軒、季《き》が鎌吉である。信栄の歿した時、信美は猶|幼《いとけな》かつたので、信美の祖父信政は信栄の妹曾能に婿を取り、所謂《いはゆる》中継として信栄の後を承《う》けしめた。此女婿が信階《のぶしな》である。
その九
宗家伊沢の四世は信階である。字は大升、別号は隆升軒、小字《をさなな》は門次郎、長じて元安と称し、後長安と改めた。門次郎は近江国の人、武蔵国埼玉郡越谷住井出権蔵の子である。権蔵は法諡《はふし》を四時軒自性如春居士と云つて、天明四年正月十一日に歿した。其妻即信階の母は善室英証大姉と云つて、明和五年五月十三日に歿した。信栄《のぶなが》の死に先《さきだ》つこと僅に百零三日である。
先代信栄の歿した時、嫡子|信美《のぶよし》が幼《いとけな》かつたので、隠居信政は井出氏門次郎を養つて子とした。信政は門次郎に妻《めあは》するに信栄の妹|曾能《その》を以てしようとして、心私《こゝろひそか》にこれを憚つた。曾能の容貌が美しくなかつたからである。偶《たま/\》識る所の家に美少女があつたので、信政は門次郎にこれを娶《めと》らむことを勧めた。門次郎は容《かたち》を改めて云つた。「わたくしを当家の御養子となされたのは伊沢の祀《まつり》を絶たぬやうにとの思召でござりませう。それにはせめて女子の血統なりとも続くやうに、お取計なさりたいと存じます。わたくしは美女を妻に迎へようとは存じも寄りませぬ」と云つた。此時信階は二十五歳、曾能は十九歳であつた。曾能は遂に信階の妻となつた。
惟《おも》ふに信階は修養あり操持ある人物であつたらしい。伝ふる所に拠れば、信階は武于竜《ぶうりう》の門人であつたと云ふ。わたくしは武于竜と云ふ儒家を知らない。或は武梅竜《ぶばいりう》ではなからうか。
武梅竜初の名は篠田|維嶽《ゐがく》、美濃の人である。しかし其郷里の詳《つまびらか》なるを知らない。後藤松陰
前へ
次へ
全567ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング