たう》の人で、正しく謂へば甥《せい》であらうか。
有信は長左衛門のために産を傾《かたぶ》け、深川の地所を売つて、麻布鳥居坂に遷《うつ》つた。今伊沢信平さんの住んでゐる邸が是である。
享保十八年十月十八日に有信は五十三歳で歿し、長谷寺《ちやうこくじ》に葬られた。即ち幼くして乳媼《にゆうをん》と共に匿《かく》れてゐた寺で、此寺が後々までも宗家以下の菩提所となるのである。有信は法諡を好信軒一道円了居士と云ふ。此人が即ち宗家伊沢の始祖である。
二世良椿信政は二十一歳にして家を継いだ。信政は町医者であつた。伊沢氏が医家であり、又読書人を出すことは此人から始まつた。
信政は幕府の菓子師大久保|主水元苗《もんどもとたね》の女《むすめ》伊佐《いさ》を娶《めと》つた。菓子師大久保主水は徳川家の世臣《せいしん》大久保氏の支流である。しかし大久保氏の家世は諸書記載を異にしてゐて、今|遽《にはか》に論定し難い。
大久保系図に拠れば、粟田関白|道兼《みちかね》十世の孫景綱より、泰宗、時綱、泰藤、常意、道意、道昌、常善、忠与を経て忠茂《ちゆうも》に至つてゐる。他書には道意を泰道とし、道昌を泰昌とし、常善を昌忠とし、忠与を忠興とし、忠茂を忠武《ちゆうぶ》としてゐる。此中には道号と名乗《なのり》との混同もあり、文字の錯誤もあるであらう。初め宇津宮氏であつたのに、道意若くは道昌に至つて宇津と称した。
忠茂に五子があつた。長忠俊、二忠次、三|忠員《たゞかず》、四忠久、以上四人の名は略《ほゞ》一定してゐるらしい。始て大久保と称したのは、忠茂若くは忠俊だと云ふ。世に謂ふ大久保彦左衛門|忠教《たゞのり》は忠俊の子だとも云ひ、忠員の子だとも云ふ。忠茂の第五子に至つては、或は忠平に作り、或は忠行に作る。伝説の菓子師は此忠行を祖としてゐるのである。
忠行が主水と称し、菓子師となつた来歴は、姑《しばら》く君臣略伝の記載に従ふに、下に説く所の如くである。
その八
大久保忠行は参河の一向宗一揆の時、上和田を守つて功があつたと云ふ。恐らくは永禄六七年の交の事であらう。徳川家康はこれに三百石を給してゐた。家康は平生餅菓子を食はなかつた。それは人の或は毒を置かむことを懼《おそ》れたからである。偶《たま/\》忠行は餅菓子を製することを善くしたので、或日その製する所を家康に献じた。家康は喜び※[#「
前へ
次へ
全567ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング