くしは爺に問うた。
「いゝえ、これには詣る方があります。わたくしは何と云ふお名前だか知らなかつたのです。なんでも年に一度位はお比丘さんが来られます。それからどうかすると書生さんのやうな方で、参詣なさるのがあります。住持様は識つてゐなさるかも知れませんが、今日《こんにち》はお留守です。」
「さうかい。わたしは此墓に由縁《ゆかり》は無いが、少しわけがあつて詣つたのだ。どうぞ綫香《せんかう》と華とを上げておくれ。それから名札をお前に頼んで置くから、住持さんが内にゐなさる時見せて、此墓にまゐる人の名前と所とを葉書でわたしに知らせて下さるやうに、さう云つておくれ。」
爺が苔を掃つて香華《かうげ》を供へるを待つて、わたくしは墓を拝した。そして爺に名刺を託して還つた。しかし新光明寺の住職は其後未だわたくしに音信《いんしん》を通じてくれない。
その七
麻布の長谷寺《ちやうこくじ》に匿《かく》れてゐた旗本伊沢の庶子は、徳兵衛と称し、人となつて有信と名告《なの》つた。有信は貨殖を志し、質店を深川に開いた。既にして家業漸く盛なるに至り、有信は附近の地所を買つた。後には其地が伊沢町と呼ばれた。永代橋を東へ渡り富吉町を経て又福島橋を渡り、南に折れて坂田橋に至る。此福島橋坂田橋間の西に面する河岸と、其中通とが即ち伊沢町であつたと云ふ。按ずるに後の中島町であらう。
有信の妻は氏名を詳《つまびらか》にしない。法諡《はふし》は貞寿院|瓊林晃珠《けいりんくわうじゆ》禅尼である。其出の一男子は早世した。浄智禅童子が是である。
有信は遠江国の人小野田八左衛門の子を養つて嗣となした。此養子が良椿《りやうちん》信政である。惟《おも》ふに享保中の頃であらう。仮に享保元年とすると、有信が三十六歳、信政が四歳、又享保十八年とすると、有信が五十三歳、信政が二十一歳である。信政の父八左衛門は法諡を大音柏樹《だいおんはくじゆ》居士と云ひ、母は※[#「女+(而/大)」、7巻−16−下−14]相寿桂《どんさうじゆけい》大姉と云ふ。
有信は此《かく》の如く志を遂げて、能く一家の基《もとゐ》を成したが、其「弟」に長左衛門と云ふものがあつた。遊惰にして財を糜《び》し、屡《しば/\》謀書謀判の科《とが》を犯し、兄有信をして賠償せしめた。総宗家の弟は有信が深川の家に来り寄るべきではないから、長左衛門は妻党《さい
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