は政達が即ち力之助の諱《いみな》ではなからうか。

     その六

 わたくしは或日旗本伊沢の墓を尋ねに、新光明寺へ往つた。浅草広徳寺前の電車道を南に折れて東側にある寺である。
 六十歳ばかりの寺男に問ふに、伊沢と云ふ檀家は知らぬと云つた。其|言語《げんぎよ》には東北の訛がある。此|爺《ぢゞ》を連れて本堂の北方にある墓地に入つて、街に近い西の端から捜しはじめた。西北隅は隣地面の人が何やら工事を起して、土を掘り上げてゐる最中である。爺が「こゝに伊の字があります」と云ふ。「どれ/\」と云つて、進み近づいて見れば、今掘つてゐる所に接して、一の大墓石が半ば傾《かたぶ》いて立つてゐる。台石は掘り上げた土に埋もれてゐる。
「これは伊奈熊蔵の墓だ、何代目だか知らぬが、これも二千石近く取つたお旗本だ」とわたくしが云つた。爺は「へえ」と云つて少し頭を傾けた。「誰も詣る人はないかい」と云ふと、「えゝ、一人もございません」と答へた。
 伊沢の墓はなか/\見附けることが出来なかつた。暫くしてから、独り東の方を捜してゐた爺が、「これではございませぬか」と呼んだ。往つて見れば前に云つた「先祖代々之墓、伊沢主水源政武」と彫つた墓である。政武は七世|主水《もんど》であらうと前に云つたが、系譜一本に拠れば一旦永井氏に養はれたかとも思はれる。墓地の東南隅にあつたのだから、我々は丁度対角の方向から捜しはじめたのであつた。
 此大墓石の傍《かたはら》に小い墓が二基ある。戒名の院の下には殿《でん》の字を添へ、居士の上には大の字を添へた厳《いかめ》しさが、粗末な小さい石に調和せぬので、異様に感ぜられる。想ふに八幡某は旗本伊沢に旧誼のあるもので、維新後三十五年にしてこれを建てたのであらう。二基は即ち政義、政達二人の墓である。
 二人の中で伊沢政義は、下田奉行としてアダムスと談判した一人である。盛世にあつては此《かく》の如き衝に当るものは、容易に侯となり伯となる。当時と雖、芙蓉間詰五千石高の江戸城留守居は重職であつた。殊に政義が最後に勤めてゐた時は、同僚が四人あつて、其世禄は平賀|勝足《かつたり》四百石、戸川安清五百石、佐野|政美《まさよし》六百石、大沢|康哲《やすさと》二千六百石であつたから、三千二百五十石の政義は筆頭であつた。其政義がこの戒名に調和せぬ小さい墓の主である。「此墓にも詣る人は無いか」と、わた
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