に休してかへる。蓮花王院方広寺に行く。大仏殿災後いまだ経営なし。只洪鐘のみ存ぜり。耳塚を経て寺門前茶店に至て撫院を待。正《まさに》申後なり。薄暮撫院来る。遂に従て行く。伏見街道に至れば已に夜なり。三峰稲荷|藤杜《ふぢのもり》の前をすぎ墨染深草の里を経、初更後伏見布屋七兵衛の家に宿す。伏見の境は東都江戸橋四日市の地と家居地勢頗同じ。此日暑甚しからず。旅家女商来る。煩喧《はんけん》蠅のごとし。行程九里許。」

     その三十七

 是日に蘭軒は京《けい》に入り京を出でた。一行は敢て淹留《えんりう》することをなさなかつたのである。奴茶屋の条に、片岡流射術の祖と云つてあるのは、片岡平右衛門家次の一族を謂つたものであらうか。その詳《つまびらか》なることはわたくしの知らざる所である。
 蘭軒が京都銭屋総四郎の許で閲《けみ》した古書の中に、治安中の鈔本玉篇がある。蘭軒は其裏を装修するに古鈔仏経を以てしてあると云つた。然るに狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が欄外に下の如くに書してゐる。「望之《ばうし》云。背面の仏経は玉篇の零本を料紙にして写したるものなり。巻子儒書の背に仏書あるもの皆これ也。仏書の故紙を以て装修せしにはあらず。」
 同じ銭屋の蔵本の中に又画一元亀の零本があつた。蘭軒はそれを「唐代所著のものと見ゆ」と云つた。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は此にも筆を加へて、「画一元亀は趙宋の書にして唐代のものにはあらず」と云つてゐる。画一元亀は多く舶載せられなかつた書である。徳川家康が嘗て僧某のこれを引いたのを聞いて林羅山に質《たゞ》した。羅山はそんな書は無いと云つたさうである。いかに博識でも、そんな書は無いなどと云ふことは、うかと云はれぬものである。
 今出川内大臣晴季は左大臣|公彦《きんひこ》の子で、豊臣秀吉の密友になつた。秀吉をして関白を奏請せしめたのは此人である。永禄四年女婿秀次の事に坐して北国に謫《たく》せられ、慶長元年赦されて還り、元和三年七十九歳で薨じた。
 詩は七律一、五律二、七絶一が集に載せてある。今其七律を録する。「入京。家々櫛比且豊饒。千載皇京属聖朝。仙署客鳴珠履過。青雲路向紫宸遙。東西※[#「隻+隻」、7巻−73−上−3]寺金銀閣。上下長橋三五条。観得都人風化好。陌頭来往不相驕。」
 第十八日は文化三年六月七日である。「七日卯
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