いただろう。そして瞑目《めいもく》するまで、美しい目の視線は遠い、遠い所に注がれていて、あるいは自分の死を不幸だと感ずる余裕をも有せなかったのではあるまいか。その望みの対象をば、あるいは何物ともしかと弁識していなかったのではあるまいか。
お佐代さんが亡くなってから六箇月目に、仲平は六十四で江戸城に召された。また二箇月目に徳川将軍に謁見《えっけん》して、用人席にせられ、翌年両番上席にせられた。仲平が直参《じきさん》になったので、藩では謙助を召し出した。ついで謙助も昌平黌出役になったので、藩の名跡は安政四年に中村が須磨子に生ませた長女糸に、高橋|圭三郎《けいざぶろう》という壻《むこ》を取って立てた。しかしこの夫婦は早く亡くなった。のちに須磨子の生んだ小太郎が継いだのはこの家である。仲平は六十六で陸奥塙《むつはなわ》六万三千九百石の代官にせられたが、病気を申し立てて赴任せずに、小普請入《こぶしんい》りをした。
住いは六十五のとき下谷徒士町《したやかちまち》に移り、六十七のとき一時藩の上邸に入っていて、麹町一丁目半蔵門外の壕端《ほりばた》の家を買って移った。策士|雲井龍雄《くもいたつお》
前へ
次へ
全27ページ中25ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング