と月見をした海嶽楼《かいがくろう》は、この家の二階である。
 幕府滅亡の余波で、江戸の騒がしかった年に、仲平は七十で表向き隠居した。まもなく海嶽楼は類焼したので、しばらく藩の上邸や下邸に入っていて、市中の騒がしい最中に、王子在|領家村《りょうけむら》の農高橋善兵衛が弟政吉の家にひそんだ。須磨子は三年前に飫肥《おび》へ往ったので、仲平の隠家へは天野家から来た謙助の妻|淑子《よしこ》と、前年八月に淑子の生んだ千菊《せんぎく》とがついて来た。産後体の悪かった淑子は、隠家に来てから六箇月目に、十九で亡くなった。下総《しもうさ》にいた夫には逢わずに死んだのである。
 仲平は隠家に冬までいて、彦根藩の代々木邸に移った。これは左伝輯釈《さでんしゅうしゃく》を彦根藩で出版してくれた縁故からである。翌年七十一で旧藩の桜田邸に移り、七十三のときまた土手《どて》三番町に移った。
 仲平の亡くなったのは、七十八の年の九月二十三日である。謙助と淑子との間に出来た、十歳の孫千菊が家を継いだ。千菊の夭折《ようせつ》したあとは小太郎の二男三郎が立てた。
[#地から1字上げ]大正三年四月
底本:「日本の文学 3 
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