くはお佐代さんはめったに絹物などは着なかったのだろう。
お佐代さんは夫に仕えて労苦を辞せなかった。そしてその報酬には何物をも要求しなかった。ただに服飾の粗に甘んじたばかりではない。立派な第宅《ていたく》におりたいとも言わず、結構な調度を使いたいとも言わず、うまい物を食べたがりも、面白い物を見たがりもしなかった。
お佐代さんが奢侈《しゃし》を解せぬほどおろかであったとは、誰も信ずることが出来ない。また物質的にも、精神的にも、何物をも希求せぬほど恬澹《てんたん》であったとは、誰も信ずることが出来ない。お佐代さんにはたしかに尋常でない望みがあって、その望みの前には一切の物が塵芥《ちりあくた》のごとく卑しくなっていたのであろう。
お佐代さんは何を望んだか。世間の賢い人は夫の栄達を望んだのだと言ってしまうだろう。これを書くわたくしもそれを否定することは出来ない。しかしもし商人が資本をおろし財利を謀《はか》るように、お佐代さんが労苦と忍耐とを夫に提供して、まだ報酬を得ぬうちに亡くなったのだと言うなら、わたくしは不敏にしてそれに同意することが出来ない。
お佐代さんは必ずや未来に何物をか望んで
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