移った。辺務《へんむ》を談ぜないということを書いて二階に張り出したのは、番町にいたときである。
お佐代さんは四十五のときにやや重い病気をして直ったが、五十の歳暮からまた床について、五十一になった年の正月四日に亡くなった。夫仲平が六十四になった年である。あとには男子に、短い運命を持った棟蔵と謙助との二人、女子に、秋元家の用人の倅《せがれ》田中鉄之助に嫁して不縁になり、ついで塩谷の媒介で、肥前国島原産の志士中村|貞太郎《ていたろう》、仮名北有馬太郎《けみょうきたありまたろう》に嫁した須磨子と、病身な四女歌子との二人が残った。須磨子は後の夫に獄中で死なれてから、お糸、小太郎の二人の子を連れて安井家に帰った。歌子は母が亡くなってから七箇月目に、二十三歳であとを追って亡くなった。
お佐代さんはどういう女であったか。美しい肌に粗服をまとって、質素な仲平に仕えつつ一生を終った。飫肥吾田村字星倉《おびあがたむらあざほしくら》から二里ばかりの小布瀬《こふせ》に、同宗の安井林平という人があって、その妻のお品さんが、お佐代さんの記念だと言って、木綿縞《もめんじま》の袷《あわせ》を一枚持っている。おそら
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