学を教えているうちに、持ち前の肝積《かんしゃく》のために、千葉で自殺した。年は二十八であった。墓は千葉町大日寺にある。
浦賀へ米艦が来て、天下多事の秋となったのは、仲平が四十八、お佐代さんが三十五のときである。大儒息軒《たいじゅそっけん》先生として天下に名を知られた仲平は、ともすれば時勢の旋渦《せんか》中に巻き込まれようとしてわずかに免れていた。
飫肥藩では仲平を相談中《そうだんちゅう》という役にした。仲平は海防策を献じた。これは四十九のときである。五十四のとき藤田東湖と交わって、水戸景山公に知られた。五十五のときペルリが浦賀に来たために、攘夷封港論《じょういほうこうろん》をした。この年藩政が気に入らぬので辞職した。しかし相談中をやめられて、用人格というものになっただけで、勤め向きは前の通りであった。五十七のとき蝦夷開拓論《えぞかいたくろん》をした。六十三のとき藩主に願って隠居した。井伊閣老が桜田見附で遭難せられ、景山公が亡くなられた年である。
家は五十一のとき隼町《はやぶさちょう》に移り、翌年火災に遭って、焼け残りの土蔵や建具を売り払って番町に移り、五十九のとき麹町善国寺谷に
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