夫婦は当時女中一人も使っていない。お佐代さんが飯炊《ままた》きをして、須磨子が買物に出る。須磨子の日向訛《ひゅうがなま》りが商人に通ぜぬので、用が弁ぜずにすごすご帰ることが多い。
お佐代さんは形《なり》ふりに構わず働いている。それでも「岡の小町」と言われた昔の俤《おもかげ》はどこやらにある。このころ黒木孫右衛門というものが仲平に逢いに来た。もと飫肥外浦《おびそとうら》の漁師であったが、物産学にくわしいため、わざわざ召し出されて徒士《かち》になった男である。お佐代さんが茶を酌《く》んで出しておいて、勝手へ下がったのを見て狡獪《こうかい》なような、滑稽なような顔をして、孫右衛門が仲平に尋ねた。
「先生。只今のはご新造さまでござりますか」
「さよう。妻で」恬然《てんぜん》として仲平は答えた。
「はあ。ご新造さまは学問をなさりましたか」
「いいや。学問というほどのことはしておりませぬ」
「してみますと、ご新造さまの方が先生の学問以上のご見識でござりますな」
「なぜ」
「でもあれほどの美人でおいでになって、先生の夫人におなりなされたところを見ますと」
仲平は覚えず失笑した。そして孫右衛門の無
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