ように」と言い残して起って出た。
長倉のご新造が川添の門を出て、道の二三丁も来たかと思うとき、あとから川添に使われている下男の音吉が駆けて来た。急に話したいことがあるから、ご苦労ながら引き返してもらいたいという口上を持って来たのである。
長倉のご新造は意外の思いをした。どうもお豊さんがそう急に意を翻したとは信ぜられない。何の話であろうか。こう思いながら音吉と一しょに川添へ戻って来た。
「お帰りがけをわざわざお呼び戻しいたして済みません。実は存じ寄らぬことが出来まして」待ち構えていた川添のご新造が、戻って来た客の座に着かぬうちに言った。
「はい」長倉のご新造は女主人の顔をまもっている。
「あの仲平さんのご縁談のことでございますね。わたくしは願うてもないよい先だと存じますので、お豊を呼んで話をいたしてみましたが、やはりまいられぬと申します。そういたすとお佐代が姉にその話を聞きまして、わたくしのところへまいって、何か申しそうにいたして申さずにおりますのでございます。なんだえと、わたくしが尋ねますと、安井さんへわたくしが参ることは出来ますまいかと申します。およめに往くということはどういうわけのものか、ろくにわからずに申すかと存じまして、いろいろ聞いてみましたが、あちらでもろうてさえ下さるなら自分は往きたいと、きっぱり申すのでございます。いかにも差出がましいことでございまして、あちらの思わくもいかがとは存じますが、とにかくあなたにご相談申し上げたいと存じまして」さも言いにくそうな口吻《くちぶり》である。
長倉のご新造はいよいよ意外の思いをした。父はこの話をするとき、「お佐代は若過ぎる」と言った。また「あまり別品でなあ」とも言った。しかしお佐代さんを嫌《きら》っているのでないことは、平生からわかっている。多分父は吊合いを考えて、年がいっていて、器量の十人並みなお豊さんをと望んだのであろう。それに若くて美しいお佐代さんが来れば、不足はあるまい。それにしても控え目で無口なお佐代さんがよくそんなことを母親に言ったものだ。これはとにかく父にも弟にも話してみて、出来ることなら、お佐代さんの望み通りにしたいものだと、長倉のご新造は思案してこう言った。「まあ、そうでございますか。父はお豊さんをと申したのでございますが、わたくしがちょっと考えてみますに、お佐代さんでは悪いとは申さぬだろうと存じます。早速あちらへまいって申してみることにいたしましょう。でもあの内気《うちき》なお佐代さんが、よくあなたにおっしゃったものでございますね」
「それでございます。わたくしも本当にびっくりいたしました。子供の思っていることは何から何までわかっているように存じていましても、大違いでございます。お父うさまにお話し下さいますなら、当人を呼びまして、ここで一応聞いてみることにいたしましょう」こう言って母親は妹娘を呼んだ。
お佐代はおそるおそる障子をあけてはいった。
母親は言った。「あの、さっきお前の言ったことだがね、仲平さんがお前のようなものでももらって下さることになったら、お前きっと往くのだね」
お佐代さんは耳まで赤くして、「はい」と言って、下げていた頭を一層低く下げた。
長倉のご新造が意外だと思ったように、滄洲《そうしゅう》翁も意外だと思った。しかし一番意外だと思ったのは壻殿《むこどの》の仲平であった。それは皆|怪訝《かいが》するとともに喜んだ人たちであるが、近所の若い男たちは怪訝するとともに嫉《そね》んだ。そして口々に「岡の小町が猿のところへ往く」と噂した。そのうち噂は清武一郷に伝播《でんぱ》して、誰一人怪訝せぬものはなかった。これは喜びや嫉《そね》みの交じらぬただの怪訝であった。
婚礼は長倉夫婦の媒妁《ばいしゃく》で、まだ桃の花の散らぬうちに済んだ。そしてこれまでただ美しいとばかり言われて、人形同様に思われていたお佐代さんは、繭《まゆ》を破って出た蛾《が》のように、その控え目な、内気な態度を脱却して、多勢《おおぜい》の若い書生たちの出入りする家で、天晴《あっぱ》れ地歩を占めた夫人になりおおせた。
十月に学問所の明教堂が落成して、安井家の祝筵《しゅくえん》に親戚故旧が寄り集まったときには、美しくて、しかもきっぱりした若夫人の前に、客の頭が自然に下がった。人にからかわれる世間のよめさんとは全く趣をことにしていたのである。
翌年仲平が三十、お佐代さんが十七で、長女|須磨子《すまこ》が生まれた。中一年おいた年の七月には、藩の学校が飫肥《おび》に遷《うつ》されることになった。そのつぎの年に、六十五になる滄洲翁は飫肥の振徳堂《しんとくどう》の総裁にせられて、三十三になる仲平がその下で助教を勤めた。清武の家は隣にいた弓削《ゆげ》という人が住まうことになって、
前へ
次へ
全7ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング