安井家は飫肥の加茂《かも》に代地をもらった。
仲平は三十五のとき、藩主の供をして再び江戸に出て、翌年帰った。これがお佐代さんがやや長い留守に空閨《くうけい》を守ったはじめである。
滄洲翁は中風で、六十九のとき亡くなった。仲平が二度目に江戸から帰った翌年である。
仲平は三十八のとき三たび江戸に出て、二十五のお佐代さんが二度目の留守をした。翌年仲平は昌平黌の斎長《さいちょう》になった。ついで外桜田の藩邸の方でも、仲平に大番所番頭《おおばんしょばんがしら》という役を命じた。そのつぎの年に、仲平は一旦帰国して、まもなく江戸へ移住することになった。今度はいずれ江戸に居所《いどころ》がきまったら、お佐代さんをも呼び迎えるという約束をした。藩の役をやめて、塾を開いて人に教える決心をしていたのである。
このころ仲平の学殖はようやく世間に認められて、親友にも塩谷宕陰《しおのやとういん》のような立派な人が出来た。二人一しょに散歩をすると、男ぶりはどちらも悪くても、とにかく背の高い塩谷が立派なので、「塩谷一丈雲腰に横たわる、安井三尺草|頭《かしら》を埋む」などと冷やかされた。
江戸に出ていても、質素な仲平は極端な簡易生活をしていた。帰り新参で、昌平黌の塾に入る前には、千駄谷にある藩の下邸《しもやしき》にいて、その後外桜田の上邸にいたり、増上寺境内の金地院《こんじいん》にいたりしたが、いつも自炊である。さていよいよ移住と決心して出てからも、一時は千駄谷にいたが、下邸に火事があってから、はじめて五番町の売居《うりすえ》を二十九枚で買った。
お佐代さんを呼び迎えたのは、五番町から上二番町の借家に引き越していたときである。いわゆる三|計塾《けいじゅく》で、階下に三畳やら四畳半やらの間が二つ三つあって、階上が斑竹山房《はんちくさんぼう》の※[#「匸<扁」、第4水準2−3−48]額《へんがく》を掛けた書斎である。斑竹山房とは江戸へ移住するとき、本国田野村字|仮屋《かりや》の虎斑竹《こはんちく》を根こじにして来たからの名である。仲平は今年四十一、お佐代さんは二十八である。長女須磨子についで、二女美保子、三女|登梅子《とめこ》と、女の子ばかり三人出来たが、かりそめの病のために、美保子が早く亡くなったので、お佐代さんは十一になる須磨子と、五つになる登梅子とを連れて、三計塾にやって来た。
仲平夫婦は当時女中一人も使っていない。お佐代さんが飯炊《ままた》きをして、須磨子が買物に出る。須磨子の日向訛《ひゅうがなま》りが商人に通ぜぬので、用が弁ぜずにすごすご帰ることが多い。
お佐代さんは形《なり》ふりに構わず働いている。それでも「岡の小町」と言われた昔の俤《おもかげ》はどこやらにある。このころ黒木孫右衛門というものが仲平に逢いに来た。もと飫肥外浦《おびそとうら》の漁師であったが、物産学にくわしいため、わざわざ召し出されて徒士《かち》になった男である。お佐代さんが茶を酌《く》んで出しておいて、勝手へ下がったのを見て狡獪《こうかい》なような、滑稽なような顔をして、孫右衛門が仲平に尋ねた。
「先生。只今のはご新造さまでござりますか」
「さよう。妻で」恬然《てんぜん》として仲平は答えた。
「はあ。ご新造さまは学問をなさりましたか」
「いいや。学問というほどのことはしておりませぬ」
「してみますと、ご新造さまの方が先生の学問以上のご見識でござりますな」
「なぜ」
「でもあれほどの美人でおいでになって、先生の夫人におなりなされたところを見ますと」
仲平は覚えず失笑した。そして孫右衛門の無遠慮なような世辞を面白がって、得意の笊棋《ざるご》の相手をさせて帰した。
お佐代さんが国から出た年、仲平は小川町に移り、翌年また牛込見附《うしごめみつけ》外の家を買った。値段はわずか十両である。八畳の間に床の間と廻《まわ》り縁《えん》とがついていて、ほかに四畳半が一間、二畳が一間、それから板の間が少々ある。仲平は八畳の間に机を据えて、周囲に書物を山のように積んで読んでいる。このころは霊岸島の鹿島屋清兵衛が蔵書を借り出して来るのである。一体仲平は博渉家《はくしょうか》でありながら、蔵書癖《ぞうしょへき》はない。質素で濫費をせぬから、生計に困るようなことはないが、十分に書物を買うだけの金はない。書物は借りて覧《み》て、書き抜いては返してしまう。大阪で篠崎の塾に通ったのも、篠崎に物を学ぶためではなくて、書物を借るためであった。芝の金地院に下宿したのも、書庫をあさるためであった。この年に三女登梅子が急病で死んで、四女歌子が生まれた。
そのつぎの年に藩主が奏者になられて、仲平に押合方《おしあいかた》という役を命ぜられたが、目が悪いと言ってことわった。薄暗い明りで本ばかり読んでいたので実際目
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