喜んで詰所へ下がると、傍輩《ほうばい》の一人がささやいた。
「奸物《かんぶつ》にも取りえはある。おぬしに表門の采配《さいはい》を振らせるとは、林殿にしてはよく出来た」
 数馬は耳をそばだてた。「なにこのたびのお役目は外記《げき》が申し上げて仰せつけられたのか」
「そうじゃ。外記殿が殿様に言われた。数馬は御先代が出格のお取立てをなされたものじゃ。ご恩報じにあれをおやりなされいと言われた。もっけの幸いではないか」
「ふん」と言った数馬の眉間《みけん》には、深い皺《しわ》が刻まれた。「よいわ。討死するまでのことじゃ」こう言い放って、数馬はついと起って館《やかた》を下がった。
 このときの数馬の様子を光尚が聞いて、竹内の屋敷へ使いをやって、「怪我をせぬように、首尾よくいたして参れ」と言わせた。数馬は「ありがたいお詞《ことば》をたしかに承ったと申し上げて下されい」と言った。
 数馬は傍輩の口から、外記が自分を推してこのたびの役に当らせたのだと聞くや否や、即時に討死をしようと決心した。それがどうしても動かすことの出来ぬほど堅固な決心であった。外記はご恩報じをさせると言ったということである。この詞ははからず聞いたのであるが、実は聞くまでもない、外記が薦《すす》めるには、そう言って薦めるにきまっている。こう思うと、数馬は立ってもすわってもいられぬような気がする。自分は御先代の引立てをこうむったには違いない。しかし元服をしてからのちの自分は、いわば大勢の近習《きんじゅ》のうちの一人で、別に出色のお扱いを受けてはいない。ご恩には誰も浴している。ご恩報じを自分に限ってしなくてはならぬというのは、どういう意味か。言うまでもない、自分は殉死するはずであったのに、殉死しなかったから、命がけの場所にやるというのである。命は何時でも喜んで棄てるが、さきにしおくれた殉死の代りに死のうとは思わない。今命を惜しまぬ自分が、なんで御先代の中陰の果ての日に命を惜しんだであろう。いわれのないことである。畢竟《ひっきょう》どれだけのご入懇《じっこん》になった人が殉死するという、はっきりした境はない。同じように勤めていた御近習の若侍のうちに殉死の沙汰がないので、自分もながらえていた。殉死してよいことなら、自分は誰よりもさきにする。それほどのことは誰の目にも見えているように思っていた。それにとうにするはずの殉死をせずにいた人間として極印《ごくいん》を打たれたのは、かえすがえすも口惜しい。自分はすすぐことの出来ぬ汚れを身に受けた。それほどの辱《はじ》を人に加えることは、あの外記でなくては出来まい。外記としてはさもあるべきことである。しかし殿様がなぜそれをお聴きいれになったか。外記に傷つけられたのは忍ぶことも出来よう。殿様に棄てられたのは忍ぶことが出来ない。島原で城に乗り入ろうとしたとき、御先代がお呼び止めなされた。それはお馬廻りのものがわざと先手《さきて》に加わるのをお止めなされたのである。このたび御当主の怪我をするなとおっしゃるのは、それとは違う。惜しい命をいたわれとおっしゃるのである。それがなんのありがたかろう。古い創《きず》の上を新たに鞭《むち》うたれるようなものである。ただ一刻も早く死にたい。死んですすがれる汚れではないが、死にたい。犬死でもよいから、死にたい。
 数馬はこう思うと、矢も楯《たて》もたまらない。そこで妻子には阿部の討手を仰せつけられたとだけ、手短《てみじか》に言い聞かせて、一人ひたすら支度を急いだ。殉死した人たちは皆|安堵《あんど》して死につくという心持ちでいたのに、数馬が心持ちは苦痛を逃れるために死を急ぐのである。乙名島徳右衛門が事情を察して、主人と同じ決心をしたほかには、一家のうちに数馬の心底を汲《く》み知ったものがない。今年二十一歳になる数馬のところへ、去年来たばかりのまだ娘らしい女房《にょうぼう》は、当歳の女の子を抱いてうろうろしているばかりである。
 あすは討入りという四月二十日の夜、数馬は行水を使って、月題《さかやき》を剃《そ》って、髪には忠利に拝領した名香|初音《はつね》を焚《た》き込めた。白無垢《しろむく》に白襷《しろだすき》、白鉢巻《しろはちまき》をして、肩に合印《あいじるし》の角取紙《すみとりがみ》をつけた。腰に帯びた刀は二尺四寸五分の正盛《まさもり》で、先祖島村弾正が尼崎で討死したとき、故郷に送った記念《かたみ》である。それに初陣《ういじん》の時拝領した兼光を差し添えた。門口には馬がいなないている。
 手槍を取って庭に降り立つとき、数馬は草鞋《わらじ》の緒《お》を男結《おとこむす》びにして、余った緒を小刀で切って捨てた。

 阿部の屋敷の裏門に向うことになった高見権右衛門はもと和田氏で、近江国《おうみのくに》和田に住んだ和田|但馬守《たじまのかみ》の裔《すえ》である。初め蒲生賢秀《がもうかたひで》にしたがっていたが、和田庄五郎の代に細川家に仕えた。庄五郎は岐阜、関原の戦いに功のあったものである。忠利の兄与一郎|忠隆《ただたか》の下についていたので、忠隆が慶長五年大阪で妻前田氏の早く落ち延びたために父の勘気を受け、入道|休無《きゅうむ》となって流浪したとき、高野山《こうやさん》や京都まで供をした。それを三斎が小倉へ呼び寄せて、高見氏を名のらせ、番頭《ばんがしら》にした。知行五百石であった。庄五郎の子が権右衛門である。島原の戦いに功があったが、軍令にそむいた廉《かど》で、一旦役を召し上げられた。それがしばらくしてから帰参して側者頭《そばものがしら》になっていたのである。権右衛門は討入りの支度のとき黒羽二重の紋附きを着て、かねて秘蔵していた備前|長船《おさふね》の刀を取り出して帯びた。そして十文字の槍を持って出た。
 竹内数馬の手に島徳右衛門がいるように、高見権右衛門は一人の小姓を連れている。阿部一族のことのあった二三年前の夏の日に、この小姓は非番で部屋に昼寝をしていた。そこへ相役の一人が供先から帰って真裸《まはだか》になって、手桶《ておけ》を提《さ》げて井戸へ水を汲みに行きかけたが、ふとこの小姓の寝ているのを見て、「おれがお供から帰ったに、水も汲んでくれずに寝ておるかい」と言いざまに枕を蹴《け》った。小姓は跳《は》ね起きた。
「なるほど。目がさめておったら、水も汲んでやろう。じゃが枕を足蹴にするということがあるか。このままには済まんぞ」こう言って抜打ちに相役を大袈裟《おおげさ》に切った。
 小姓は静かに相役の胸の上にまたがって止めを刺して、乙名の小屋へ行って仔細《しさい》を話した。「即座に死ぬるはずでござりましたが、ご不審もあろうかと存じまして」と、肌《はだ》を脱いで切腹しようとした。乙名が「まず待て」と言って権右衛門に告げた。権右衛門はまだ役所から下がって、衣服も改めずにいたので、そのまま館《やかた》へ出て忠利に申し上げた。忠利は「尤《もっと》ものことじゃ。切腹にはおよばぬ」と言った。このときから小姓は権右衛門に命を捧げて奉公しているのである。
 小姓は箙《えびら》を負い半弓を取って、主のかたわらに引き添った。

 寛永十九年四月二十一日は麦秋《むぎあき》によくある薄曇りの日であった。
 阿部一族の立て籠っている山崎の屋敷に討ち入ろうとして、竹内数馬の手のものは払暁《ふつぎょう》に表門の前に来た。夜通し鉦太鼓《かねたいこ》を鳴らしていた屋敷のうちが、今はひっそりとして空家《あきや》かと思われるほどである。門の扉《とびら》は鎖《とざ》してある。板塀の上に二三尺伸びている夾竹桃《きょうちくとう》の木末《うら》には、蜘《くも》のいがかかっていて、それに夜露が真珠のように光っている。燕《つばめ》が一羽どこからか飛んで来て、つと塀のうちに入った。
 数馬は馬を乗り放って降り立って、しばらく様子を見ていたが、「門をあけい」と言った。足軽が二人塀を乗り越してうちにはいった。門の廻りには敵は一人もいないので、錠前を打ちこわして貫《かん》の木を抜いた。
 隣家の柄本又七郎は数馬の手のものが門をあける物音を聞いて、前夜結び縄を切っておいた竹垣を踏み破って、駈け込んだ。毎日のように往《ゆ》き来《き》して、隅々《すみずみ》まで案内を知っている家である。手槍を構えて台所の口から、つとはいった。座敷の戸を締め切って、籠《こ》み入る討手のものを一人一人討ち取ろうとして控えていた一族の中で、裏口に人のけはいのするのに、まず気のついたのは弥五兵衛である。これも手槍を提げて台所へ見に出た。
 二人は槍の穂先と穂先とが触れ合うほどに相対した。「や、又七郎か」と、弥五兵衛が声をかけた。
「おう。かねての広言がある。おぬしが槍の手並みを見に来た」
「ようわせた。さあ」
 二人は一歩しざって槍を交えた。しばらく戦ったが、槍術は又七郎の方が優れていたので、弥五兵衛の胸板をしたたかにつき抜いた。弥五兵衛は槍をからりと棄てて、座敷の方へ引こうとした。
「卑怯《ひきょう》じゃ。引くな」又七郎が叫んだ。
「いや逃げはせぬ。腹を切るのじゃ」言いすてて座敷にはいった。
 その刹那《せつな》に「おじ様、お相手」と叫んで、前髪の七之丞が電光のごとくに飛んで出て、又七郎の太股《ふともも》をついた。入懇《じっこん》の弥五兵衛に深手を負わせて、覚えず気が弛《ゆる》んでいたので、手錬の又七郎も少年の手にかかったのである。又七郎は槍を棄ててその場に倒れた。
 数馬は門内に入って人数を屋敷の隅々に配った。さて真っ先に玄関に進んでみると、正面の板戸が細目にあけてある。数馬がその戸に手をかけようとすると、島徳右衛門が押し隔てて、詞せわしくささやいた。
「お待ちなさりませ。殿は今日の総大将じゃ。それがしがお先をいたします」
 徳右衛門は戸をがらりとあけて飛び込んだ。待ち構えていた市太夫の槍に、徳右衛門は右の目をつかれてよろよろと数馬に倒れかかった。
「邪魔じゃ」数馬は徳右衛門を押し退けて進んだ。市太夫、五太夫の槍が左右のひわらをつき抜いた。
 添島九兵衛、野村庄兵衛が続いて駆け込んだ。徳右衛門も痛手に屈せず取って返した。
 このとき裏門を押し破ってはいった高見権右衛門は十文字槍をふるって、阿部の家来どもをつきまくって座敷に来た。千場《ちば》作兵衛も続いて籠《こ》み入った。
 裏表二手のものどもが入り違えて、おめき叫んで衝《つ》いて来る。障子襖は取り払ってあっても、三十畳に足らぬ座敷である。市街戦の惨状が野戦よりはなはだしいと同じ道理で、皿《さら》に盛られた百虫《ひゃくちゅう》の相啖《あいくら》うにもたとえつべく、目も当てられぬありさまである。
 市太夫、五太夫は相手きらわず槍を交えているうち、全身に数えられぬほどの創《きず》を受けた。それでも屈せずに、槍を棄てて刀を抜いて切り廻っている。七之丞はいつのまにか倒れている。
 太股《ふともも》をつかれた柄本又七郎が台所に伏していると、高見の手のものが見て、「手をお負《お》いなされたな、お見事じゃ、早うお引きなされい」と言って、奥へ通り抜けた。「引く足があれば、わしも奥へはいるが」と、又七郎は苦々しげに言って歯咬《はが》みをした。そこへ主のあとを慕って入り込んだ家来の一人が駈けつけて、肩にかけて退いた。
 今一人の柄本家の被官《ひかん》天草平九郎というものは、主の退《の》き口《くち》を守って、半弓をもって目にかかる敵を射ていたが、その場で討死した。
 竹内数馬の手では島徳右衛門がまず死んで、ついで小頭添島九兵衛が死んだ。
 高見権右衛門が十文字槍をふるって働く間、半弓を持った小姓はいつも槍脇《やりわき》を詰めて敵を射ていたが、のちには刀を抜いて切って廻った。ふと見れば鉄砲で権右衛門をねらっているものがある。
「あの丸《たま》はわたくしが受け止めます」と言って、小姓が権右衛門の前に立つと、丸が来てあたった。小姓は即死した。竹内の組から抜いて高見につけられた小頭千場作兵衛は重手《おもで》を負って台所に出て、水瓶《みずかめ》の水を呑《の》んだが、そのままそこ
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