阿部一族
森鴎外

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(例)従《じゅ》四|位下左近衛少将《いのげさこんえのしょうしょう》

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(例)従《じゅ》四|位下左近衛少将《いのげさこんえのしょうしょう》

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(例)荼※[#「たへん」に「比」、17−上12]《だび》
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 従《じゅ》四|位下《いのげ》左近衛少将《さこんえのしょうしょう》兼|越中守《えっちゅうのかみ》細川忠利《ほそかわただとし》は、寛永十八年|辛巳《しんし》の春、よそよりは早く咲く領地|肥後国《ひごのくに》の花を見すてて、五十四万石の大名の晴れ晴れしい行列に前後を囲ませ、南より北へ歩みを運ぶ春とともに、江戸を志して参勤《さんきん》の途《みち》に上ろうとしているうち、はからず病にかかって、典医の方剤も功を奏せず、日に増し重くなるばかりなので、江戸へは出発日延べの飛脚が立つ。徳川将軍は名君の誉れの高い三代目の家光で、島原|一揆《いっき》のとき賊将|天草《あまくさ》四郎|時貞《ときさだ》を討ち取って大功を立てた忠利の身の上を気づかい、三月二十日には松平伊豆守《まつだいらいずのかみ》、阿部豊後守《あべぶんごのかみ》、阿部対馬守《あべつしまのかみ》の連名の沙汰書《さたしょ》を作らせ、針医|以策《いさく》というものを、京都から下向《げこう》させる。続いて二十二日には同じく執政三人の署名した沙汰書を持たせて、曽我又左衛門《そがまたざえもん》という侍《さむらい》を上使につかわす。大名に対する将軍家の取扱いとしては、鄭重《ていちょう》をきわめたものであった。島原征伐がこの年から三年前寛永十五年の春平定してからのち、江戸の邸《やしき》に添地《そえち》を賜わったり、鷹狩《たかがり》の鶴《つる》を下されたり、ふだん慇懃《いんぎん》を尽くしていた将軍家のことであるから、このたびの大病を聞いて、先例の許す限りの慰問をさせたのも尤《もっと》もである。
 将軍家がこういう手続きをする前に、熊本花畑の館《やかた》では忠利の病が革《すみや》かになって、とうとう三月十七日|申《さる》の刻に五十六歳で亡《な》くなった。奥方は小笠原《おがさわら》兵部大輔《ひょうぶたゆう》秀政《ひでまさ》の娘を将軍が養女にして妻《めあわ》せた人で、今年四十五歳になっている。名をお千《せん》の方《かた》という。嫡子《ちゃくし》六丸は六年前に元服して将軍家から光《みつ》の字を賜わり、光貞《みつさだ》と名のって、従四位下|侍従《じじゅう》兼|肥後守《ひごのかみ》にせられている。今年十七歳である。江戸参勤中で遠江国《とおとうみのくに》浜松まで帰ったが、訃音《ふいん》を聞いて引き返した。光貞はのち名を光尚《みつひさ》と改めた。二男|鶴千代《つるちよ》は小さいときから立田山の泰勝寺《たいしょうじ》にやってある。京都妙心寺出身の大淵和尚《たいえんおしょう》の弟子になって宗玄といっている。三男松之助は細川家に旧縁のある長岡氏に養われている。四男勝千代は家臣南条|大膳《だいぜん》の養子になっている。女子は二人ある。長女|藤姫《ふじひめ》は松平|周防守《すおうのかみ》忠弘《ただひろ》の奥方になっている。二女竹姫はのちに有吉《ありよし》頼母《たのも》英長《ひでなが》の妻になる人である。弟には忠利が三斎《さんさい》の三男に生まれたので、四男|中務《なかつかさ》大輔《たゆう》立孝《たつたか》、五男|刑部《ぎょうぶ》興孝《おきたか》、六男長岡式部|寄之《よりゆき》の三人がある。妹《いもと》には稲葉|一通《かずみち》に嫁した多羅姫《たらひめ》、烏丸《からすまる》中納言《ちゅうなごん》光賢《みつかた》に嫁した万姫《まんひめ》がある。この万姫の腹に生まれた禰々姫《ねねひめ》が忠利の嫡子光尚の奥方になって来るのである。目上には長岡氏を名のる兄が二人、前野長岡両家に嫁した姉が二人ある。隠居三斎|宗立《そうりゅう》もまだ存命で、七十九歳になっている。この中には嫡子光貞のように江戸にいたり、また京都、そのほか遠国にいる人だちもあるが、それがのちに知らせを受けて歎《なげ》いたのと違って、熊本の館《やかた》にいた限りの人だちの歎きは、わけて痛切なものであった。江戸への注進には六島少吉《むつしましょうきち》、津田六左衛門の二人が立った。
 三月二十四日には初七日《しょなぬか》の営みがあった。四月二十八日にはそれまで館の居間の床板《とこいた》を引き放って、土中に置いてあった棺《かん》を舁《か》き上げて、江戸からの指図《さしず》によって、飽田郡《あきたごおり》春日村《かすがむら》岫雲院《しゅううんいん》で遺骸《いがい》を荼※[#「たへん」に「比」、17−上12]《だび》にして、高麗門《こうらいもん》の外の山に葬った。この霊屋《みたまや》の下に、翌年の冬になって、護国山《ごこくざん》妙解寺《みょうげじ》が建立《こんりゅう》せられて、江戸品川東海寺から沢庵和尚《たくあんおしょう》の同門の啓室和尚が来て住持になり、それが寺内の臨流庵《りんりゅうあん》に隠居してから、忠利の二男で出家していた宗玄が、天岸和尚と号して跡つぎになるのである。忠利の法号は妙解院殿《みょうげいんでん》台雲宗伍大居士《たいうんそうごだいこじ》とつけられた。
 岫雲院で荼※[#「たへん」に「比」、17−上19]《だび》になったのは、忠利の遺言によったのである。いつのことであったか、忠利が方目狩《ばんがり》に出て、この岫雲院で休んで茶を飲んだことがある。そのとき忠利はふと腮髯《あごひげ》の伸びているのに気がついて住持に剃刀《かみそり》はないかと言った。住持が盥《たらい》に水を取って、剃刀を添えて出した。忠利は機嫌《きげん》よく児小姓《こごしょう》に髯を剃《そ》らせながら、住持に言った。「どうじゃな。この剃刀では亡者《もうじゃ》の頭をたくさん剃ったであろうな」と言った。住持はなんと返事をしていいかわからぬので、ひどく困った。このときから忠利は岫雲院の住持と心安くなっていたので、荼※[#「たへん」に「比」、17−下5]所《だびしょ》をこの寺にきめたのである。ちょうど荼※[#「たへん」に「比」、17−下6]の最中であった。柩《ひつぎ》の供をして来ていた家臣たちの群れに、「あれ、お鷹がお鷹が」と言う声がした。境内《けいだい》の杉《すぎ》の木立ちに限られて、鈍い青色をしている空の下、円形の石の井筒《いづつ》の上に笠《かさ》のように垂れかかっている葉桜の上の方に、二羽の鷹が輪をかいて飛んでいたのである。人々が不思議がって見ているうちに、二羽が尾と嘴《くちばし》と触れるようにあとさきに続いて、さっと落して来て、桜の下の井の中にはいった。寺の門前でしばらく何かを言い争っていた五六人の中から、二人の男が駈《か》け出して、井の端《はた》に来て、石の井筒に手をかけて中をのぞいた。そのとき鷹は水底深く沈んでしまって、歯朶《しだ》の茂みの中に鏡のように光っている水面は、もうもとの通りに平らになっていた。二人の男は鷹匠衆《たかじょうしゅう》であった。井の底にくぐり入って死んだのは、忠利が愛していた有明《ありあけ》、明石《あかし》という二羽の鷹であった。そのことがわかったとき、人々の間に、「それではお鷹も殉死《じゅんし》したのか」とささやく声が聞えた。それは殿様がお隠れになった当日から一昨日《おとつい》までに殉死した家臣が十余人あって、中にも一昨日は八人一時に切腹し、昨日《きのう》も一人切腹したので、家中誰《かちゅうたれ》一|人《にん》殉死のことを思わずにいるものはなかったからである。二羽の鷹はどういう手ぬかりで鷹匠衆の手を離れたか、どうして目に見えぬ獲物《えもの》を追うように、井戸の中に飛び込んだか知らぬが、それを穿鑿《せんさく》しようなどと思うものは一人もない。鷹は殿様のご寵愛《ちょうあい》なされたもので、それが荼※[#「たへん」に「比」、18−上7]の当日に、しかもお荼※[#「たへん」に「比」、18−上8]所の岫雲院の井戸にはいって死んだというだけの事実を見て、鷹が殉死したのだという判断をするには十分であった。それを疑って別に原因を尋ねようとする余地はなかったのである。

 中陰の四十九日が五月五日に済んだ。これまでは宗玄をはじめとして、既西堂《きせいどう》、金両堂《こんりょうどう》、天授庵《てんじゅあん》、聴松院《ちょうしょういん》、不二庵《ふじあん》等の僧侶《そうりょ》が勤行《ごんぎょう》をしていたのである。さて五月六日になったが、まだ殉死する人がぽつぽつある。殉死する本人や親兄弟妻子は言うまでもなく、なんの由縁《ゆかり》もないものでも、京都から来るお針医と江戸から下る御上使との接待の用意なんぞはうわの空でしていて、ただ殉死のことばかり思っている。例年|簷《のき》に葺《ふ》く端午の菖蒲《しょうぶ》も摘《つ》まず、ましてや初幟《はつのぼり》の祝をする子のある家も、その子の生まれたことを忘れたようにして、静まり返っている。
 殉死にはいつどうしてきまったともなく、自然に掟《おきて》が出来ている。どれほど殿様を大切に思えばといって、誰でも勝手に殉死が出来るものではない。泰平《たいへい》の世の江戸参勤のお供、いざ戦争というときの陣中へのお供と同じことで、死天《しで》の山|三途《さんず》の川のお供をするにもぜひ殿様のお許しを得なくてはならない。その許しもないのに死んでは、それは犬死《いぬじに》である。武士は名聞《みょうもん》が大切だから、犬死はしない。敵陣に飛び込んで討死《うちじに》をするのは立派ではあるが、軍令にそむいて抜駈《ぬけが》けをして死んでは功にはならない。それが犬死であると同じことで、お許しのないに殉死しては、これも犬死である。たまにそういう人で犬死にならないのは、値遇《ちぐう》を得た君臣の間に黙契があって、お許しはなくてもお許しがあったのと変らぬのである。仏涅槃《ぶつねはん》ののちに起った大乗の教えは、仏《ほとけ》のお許しはなかったが、過現未《かげんみ》を通じて知らぬことのない仏は、そういう教えが出て来るものだと知って懸許《けんきょ》しておいたものだとしてある。お許しがないのに殉死の出来るのは、金口《こんぐ》で説かれると同じように、大乗の教えを説くようなものであろう。
 そんならどうしてお許しを得るかというと、このたび殉死した人々の中の内藤長十郎|元続《もとつぐ》が願った手段などがよい例である。長十郎は平生《へいぜい》忠利の机廻りの用を勤めて、格別のご懇意をこうむったもので、病床を離れずに介抱をしていた。もはや本復は覚束《おぼつか》ないと、忠利が悟ったとき、長十郎に「末期《まつご》が近うなったら、あの不二と書いてある大文字の懸物《かけもの》を枕もとにかけてくれ」と言いつけておいた。三月十七日に容態が次第に重くなって、忠利が「あの懸物をかけえ」と言った。長十郎はそれをかけた。忠利はそれを一目見て、しばらく瞑目《めいもく》していた。それから忠利が「足がだるい」と言った。長十郎は掻巻《かいまき》の裾《すそ》をしずかにまくって、忠利の足をさすりながら、忠利の顔をじっと見ると、忠利もじっと見返した。
「長十郎お願いがござりまする」
「なんじゃ」
「ご病気はいかにもご重体のようにはお見受け申しまするが、神仏の加護良薬の功験で、一日も早うご全快遊ばすようにと、祈願いたしておりまする。それでも万一と申すことがござりまする。もしものことがござりましたら、どうぞ長十郎|奴《め》にお供を仰せつけられますように」
 こう言いながら長十郎は忠利の足をそっと持ち上げて、自分の額《ひたい》に押し当てて戴いた。目には涙が一ぱい浮かんでいた。
「それはいかんぞよ」こう言って忠利は今まで長十郎と顔を見合わせていたのに、半分寝返りをするように脇《わき》を向いた。
「どうぞそうおっしゃらずに」長
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