十郎はまた忠利の足を戴いた。
「いかんいかん」顔をそむけたままで言った。
 列座の者の中から、「弱輩の身をもって推参じゃ、控えたらよかろう」と言ったものがある。長十郎は当年十七歳である。
「どうぞ」咽《のど》につかえたような声で言って、長十郎は三度目に戴いた足をいつまでも額に当てて放さずにいた。
「情の剛《こわ》い奴《やつ》じゃな」声はおこって叱《しか》るようであったが、忠利はこの詞《ことば》とともに二度うなずいた。
 長十郎は「はっ」と言って、両手で忠利の足を抱《かか》えたまま、床の背後《うしろ》に俯伏《うつぶ》して、しばらく動かずにいた。そのとき長十郎の心のうちには、非常な難所を通って往き着かなくてはならぬ所へ往き着いたような、力の弛《ゆる》みと心の落着きとが満ちあふれて、そのほかのことは何も意識に上らず、備後畳《びんごたたみ》の上に涙のこぼれるのも知らなかった。
 長十郎はまだ弱輩で何一つきわだった功績もなかったが、忠利は始終目をかけて側近《そばちか》く使っていた。酒が好きで、別人なら無礼のお咎《とが》めもありそうな失錯《しっさく》をしたことがあるのに、忠利は「あれは長十郎がしたのではない、酒がしたのじゃ」と言って笑っていた。それでその恩に報いなくてはならぬ、その過《あやま》ちを償《つぐの》わなくてはならぬと思い込んでいた長十郎は、忠利の病気が重《おも》ってからは、その報謝と賠償との道は殉死のほかないとかたく信ずるようになった。しかし細かにこの男の心中に立ち入ってみると、自分の発意で殉死しなくてはならぬという心持ちのかたわら、人が自分を殉死するはずのものだと思っているに違いないから、自分は殉死を余儀なくせられていると、人にすがって死の方向へ進んでいくような心持ちが、ほとんど同じ強さに存在していた。反面から言うと、もし自分が殉死せずにいたら、恐ろしい屈辱を受けるに違いないと心配していたのである。こういう弱みのある長十郎ではあるが、死を怖《おそ》れる念は微塵《みじん》もない。それだからどうぞ殿様に殉死を許して戴こうという願望《がんもう》は、何物の障礙《しょうがい》をもこうむらずにこの男の意志の全幅を領していたのである。
 しばらくして長十郎は両手で持っている殿様の足に力がはいって少し踏み伸ばされるように感じた。これはまただるくおなりになったのだと思ったので、また最初のようにしずかにさすり始めた。このとき長十郎の心頭には老母と妻とのことが浮かんだ。そして殉死者の遺族が主家の優待を受けるということを考えて、それで己《おのれ》は家族を安穏な地位において、安んじて死ぬることが出来ると思った。それと同時に長十郎の顔は晴れ晴れした気色になった。

 四月十七日の朝、長十郎は衣服を改めて母の前に出て、はじめて殉死のことを明かして暇乞《いとまご》いをした。母は少しも驚かなかった。それは互いに口に出しては言わぬが、きょうは倅《せがれ》が切腹する日だと、母もとうから思っていたからである。もし切腹しないとでも言ったら、母はさぞ驚いたことであろう。
 母はまだもらったばかりのよめが勝手にいたのをその席へ呼んでただ支度が出来たかと問うた。よめはすぐに起《た》って、勝手からかねて用意してあった杯盤を自身に運んで出た。よめも母と同じように、夫がきょう切腹するということをとうから知っていた。髪を綺麗《きれい》に撫《な》でつけて、よい分のふだん着に着換えている。母もよめも改まった、真面目《まじめ》な顔をしているのは同じことであるが、ただよめの目の縁《ふち》が赤くなっているので、勝手にいたとき泣いたことがわかる。杯盤が出ると、長十郎は弟左平次を呼んだ。
 四人は黙って杯を取り交わした。杯が一順したとき母が言った。
「長十郎や。お前の好きな酒じゃ。少し過してはどうじゃな」
「ほんにそうでござりまするな」と言って、長十郎は微笑を含んで、心地《ここち》よげに杯を重ねた。
 しばらくして長十郎が母に言った。「よい心持ちに酔いました。先日からかれこれと心づかいをいたしましたせいか、いつもより酒が利いたようでござります。ご免をこうむってちょっと一休みいたしましょう」
 こう言って長十郎は起って居間にはいったが、すぐに部屋の真ん中に転がって、鼾《いびき》をかきだした。女房があとからそっとはいって枕を出して当てさせたとき、長十郎は「ううん」とうなって寝返りをしただけで、また鼾をかき続けている。女房はじっと夫の顔を見ていたが、たちまちあわてたように起って部屋へ往った。泣いてはならぬと思ったのである。
 家はひっそりとしている。ちょうど主人の決心を母と妻とが言わずに知っていたように、家来も女中も知っていたので、勝手からも厩《うまや》の方からも笑い声なぞは聞こえない。
 母は母の部屋に、よめはよめの部屋に、弟は弟の部屋に、じっと物を思っている。主人は居間で鼾をかいて寝ている。あけ放ってある居間の窓には、下に風鈴をつけた吊荵《つりしのぶ》が吊ってある。その風鈴が折り折り思い出したようにかすかに鳴る。その下には丈《たけ》の高い石の頂《いただき》を掘りくぼめた手水鉢《ちょうずばち》がある。その上に伏せてある捲物《まきもの》の柄杓《ひしゃく》に、やんまが一|疋《ぴき》止まって、羽を山形に垂れて動かずにいる。
 一時《ひととき》立つ。二時《ふたとき》立つ。もう午《ひる》を過ぎた。食事の支度は女中に言いつけてあるが、姑《しゅうとめ》が食べると言われるか、どうだかわからぬと思って、よめは聞きに行こうと思いながらためらっていた。もし自分だけが食事のことなぞを思うように取られはすまいかとためらっていたのである。
 そのときかねて介錯《かいしゃく》を頼まれていた関小平次が来た。姑はよめを呼んだ。よめが黙って手をついて機嫌を伺っていると、姑が言った。
「長十郎はちょっと一休みすると言うたが、いかい時が立つような。ちょうど関殿も来られた。もう起こしてやってはどうじゃろうの」
「ほんにそうでござります。あまり遅くなりません方が」よめはこう言って、すぐに起《た》って夫を起しに往った。
 夫の居間に来た女房は、さきに枕をさせたときと同じように、またじっと夫の顔を見ていた。死なせに起すのだと思うので、しばらくは詞《ことば》をかけかねていたのである。
 熟睡していても、庭からさす昼の明りがまばゆかったと見えて、夫は窓の方を背にして、顔をこっちへ向けている。
「もし、あなた」と女房は呼んだ。
 長十郎は目をさまさない。
 女房がすり寄って、そびえている肩に手をかけると、長十郎は「あ、ああ」と言って臂《ひじ》を伸ばして、両眼を開いて、むっくり起きた。
「たいそうよくお休みになりました。お袋さまがあまり遅くなりはせぬかとおっしゃりますから、お起し申しました。それに関様がおいでになりました」
「そうか。それでは午《ひる》になったと見える。少しの間だと思ったが、酔ったのと疲れがあったのとで、時の立つのを知らずにいた。その代りひどく気分がようなった。茶漬《ちゃづけ》でも食べて、そろそろ東光院へ往かずばなるまい。お母《か》あさまにも申し上げてくれ」
 武士はいざというときには飽食《ほうしょく》はしない。しかしまた空腹で大切なことに取りかかることもない。長十郎は実際ちょっと寝ようと思ったのだが、覚えず気持よく寝過し、午《ひる》になったと聞いたので、食事をしようと言ったのである。これから形《かた》ばかりではあるが、一家《いっけ》四人のものがふだんのように膳《ぜん》に向かって、午の食事をした。
 長十郎は心静かに支度をして、関を連れて菩提所《ぼだいしょ》東光院へ腹を切りに往った。

 長十郎が忠利の足を戴いて願ったように、平生恩顧を受けていた家臣のうちで、これと前後して思い思いに殉死の願いをして許されたものが、長十郎を加えて十八人あった。いずれも忠利の深く信頼していた侍どもである。だから忠利の心では、この人々を子息|光尚《みつひさ》の保護のために残しておきたいことは山々であった。またこの人々を自分と一しょに死なせるのが残刻《ざんこく》だとは十分感じていた。しかし彼ら一人一人に「許す」という一言を、身を割《さ》くように思いながら与えたのは、勢いやむことを得なかったのである。
 自分の親しく使っていた彼らが、命を惜しまぬものであるとは、忠利は信じている。したがって殉死を苦痛とせぬことも知っている。これに反してもし自分が殉死を許さずにおいて、彼らが生きながらえていたら、どうであろうか。家中《かちゅう》一同は彼らを死ぬべきときに死なぬものとし、恩知らずとし、卑怯者《ひきょうもの》としてともに歯《よわい》せぬであろう。それだけならば、彼らもあるいは忍んで命を光尚に捧げるときの来るのを待つかも知れない。しかしその恩知らず、その卑怯者をそれと知らずに、先代の主人が使っていたのだと言うものがあったら、それは彼らの忍び得ぬことであろう。彼らはどんなにか口惜しい思いをするであろう。こう思ってみると、忠利は「許す」と言わずにはいられない。そこで病苦にも増したせつない思いをしながら、忠利は「許す」と言ったのである。
 殉死を許した家臣の数が十八人になったとき、五十余年の久しい間治乱のうちに身を処して、人情|世故《せいこ》にあくまで通じていた忠利は病苦の中にも、つくづく自分の死と十八人の侍の死とについて考えた。生《しょう》あるものは必ず滅する。老木の朽ち枯れるそばで、若木は茂り栄えて行く。嫡子《ちゃくし》光尚の周囲にいる少壮者《わかもの》どもから見れば、自分の任用している老成人《としより》らは、もういなくてよいのである。邪魔にもなるのである。自分は彼らを生きながらえさせて、自分にしたと同じ奉公を光尚にさせたいと思うが、その奉公を光尚にするものは、もう幾人も出来ていて、手ぐすね引いて待っているかも知れない。自分の任用したものは、年来それぞれの職分を尽くして来るうちに、人の怨《うら》みをも買っていよう。少くも娼嫉《そねみ》の的になっているには違いない。そうしてみれば、強《し》いて彼らにながらえていろというのは、通達した考えではないかも知れない。殉死を許してやったのは慈悲であったかも知れない。こう思って忠利は多少の慰藉《いしゃ》を得たような心持ちになった。
 殉死を願って許された十八人は寺本八左衛門|直次《なおつぐ》、大塚喜兵衛|種次《たねつぐ》、内藤長十郎|元続《もとつぐ》、太田小十郎正信、原田十次郎|之直《ゆきなお》、宗像《むなかた》加兵衛|景定《かげさだ》、同|吉太夫《きちだゆう》景好《かげよし》、橋谷市蔵|重次《しげつぐ》、井原十三郎|吉正《よしまさ》、田中意徳、本庄喜助|重正《しげまさ》、伊藤太左衛門|方高《まさたか》、右田|因幡統安《いなばむねやす》、野田喜兵衛|重綱《しげつな》、津崎五助|長季《ながすえ》、小林理右衛門|行秀《ゆきひで》、林与左衛門|正定《まささだ》、宮永勝左衛門|宗佑《むねすけ》の人々である。

 寺本が先祖は尾張国《おわりのくに》寺本に住んでいた寺本太郎というものであった。太郎の子|内膳正《ないぜんのしょう》は今川家に仕えた。内膳正の子が左兵衛、左兵衛の子が右衛門佐《うえもんのすけ》、右衛門佐の子が与左衛門で、与左衛門は朝鮮征伐のとき、加藤|嘉明《よしあき》に属して功があった。与左衛門の子が八左衛門で、大阪|籠城《ろうじょう》のとき、後藤|基次《もとつぐ》の下で働いたことがある。細川家に召《め》し抱《かか》えられてから、千石取って、鉄砲五十|挺《ちょう》の頭《かしら》になっていた。四月二十九日に安養寺で切腹した。五十三歳である。藤本|猪左衛門《いざえもん》が介錯《かいしゃく》した。大塚は百五十石取りの横目役《よこめやく》である。四月二十六日に切腹した。介錯は池田八左衛門であった。内藤がことは前に言った。太田は祖父伝左衛門が加藤清正に仕えていた。忠広が封《ほう》を除かれたとき、伝左衛門とその子の源左衛門とが流浪《るろ
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