う》した。小十郎は源左衛門の二男で児小姓《こごしょう》に召し出された者である。百五十石取っていた。殉死の先登《せんとう》はこの人で、三月十七日に春日寺《かすがでら》で切腹した。十八歳である。介錯は門司《もじ》源兵衛がした。原田は百五十石取りで、お側《そば》に勤めていた。四月二十六日に切腹した。介錯は鎌田《かまだ》源太夫がした。宗像加兵衛、同|吉太夫《きちだゆう》の兄弟は、宗像中納言|氏貞《うじさだ》の後裔《こうえい》で、親清兵衛|景延《かげのぶ》の代に召し出された。兄弟いずれも二百石取りである。五月二日に兄は流長院、弟は蓮政寺《れんしょうじ》で切腹した。兄の介錯は高田十兵衛、弟のは村上市右衛門がした。橋谷は出雲国《いずものくに》の人で、尼子《あまこ》の末流《ばつりゅう》である。十四歳のとき忠利に召し出されて、知行百石の側役《そばやく》を勤め、食事の毒味をしていた。忠利は病が重くなってから、橋谷の膝《ひざ》を枕にして寝たこともある。四月二十六日に西岸寺で切腹した。ちょうど腹を切ろうとすると、城の太鼓がかすかに聞えた。橋谷はついて来ていた家隷《けらい》に、外へ出て何時《なんどき》か聞いて来いと言った。家隷は帰って、「しまいの四つだけは聞きましたが、総体の桴数《ばちかず》はわかりません」と言った。橋谷をはじめとして、一座の者が微笑《ほほえ》んだ。橋谷は「最期《さいご》によう笑わせてくれた」と言ってA家隷に羽織を取らせて切腹した。吉村|甚太夫《じんだゆう》が介錯した。井原は切米《きりまい》三人|扶持《ふち》十石を取っていた。切腹したとき阿部|弥一右衛門《やいちえもん》の家隷林左兵衛が介錯した。田中は阿菊物語《おきくものがたり》を世に残したお菊が孫で、忠利が愛宕山《あたごさん》へ学問に往ったときの幼な友達であった。忠利がそのころ出家しようとしたのを、ひそかに諫《いさ》めたことがある。のちに知行二百石の側役を勤め、算術が達者で用に立った。老年になってからは、君前で頭巾《ずきん》をかむったまま安座することを免《ゆる》されていた。当代に追腹《おいばら》を願っても許されぬので、六月十九日に小脇差《こわきざし》を腹に突き立ててから願書を出して、とうとう許された。加藤安太夫が介錯した。本庄は丹後国《たんごのくに》の者で、流浪していたのを三斎公の部屋附き本庄久右衛門《ほんじょうきゅうえもん》が召使っていた。仲津で狼藉者《ろうぜきもの》を取り押さえて、五人扶持十五石の切米取《きりまいと》りにせられた。本庄を名のったのもそのときからである。四月二十六日に切腹した。伊藤は奥納戸役《おくおなんどやく》を勤めた切米取りである。四月二十六日に切腹した。介錯は河喜多《かわきた》八助がした。右田は大伴家《おおともけ》の浪人で、忠利に知行百石で召し抱えられた。四月二十七日に自宅で切腹した。六十四歳である。松野右京の家隷田原勘兵衛が介錯した。野田は天草の家老野田|美濃《みの》の倅《せがれ》で、切米取りに召し出された。四月二十六日に源覚寺で切腹した。介錯は恵良《えら》半衛門がした。津崎のことは別に書く。小林は二人扶持十石の切米取りである。切腹のとき、高野勘右衛門が介錯した。林は南郷下田村の百姓であったのを、忠利が十人扶持十五石に召し出して、花畑の館《やかた》の庭方《にわかた》にした。四月二十六日に仏巌寺《ぶつがんじ》で切腹した。介錯は仲光《なかみつ》半助がした。宮永は二人扶持十石の台所役人で、先代に殉死を願った最初の男であった。四月二十六日に浄照寺《じょうしょうじ》で切腹した。介錯は吉村|嘉右衛門《かえもん》がした。この人々の中にはそれぞれの家の菩提所《ぼだいしょ》に葬られたのもあるが、また高麗門外《こうらいもんがい》の山中にある霊屋《おたまや》のそばに葬られたのもある。
切米取りの殉死者はわりに多人数であったが、中にも津崎五助の事蹟は、きわだって面白いから別に書くことにする。
五助は二人扶持六石の切米取りで、忠利の犬牽《いぬひ》きである。いつも鷹狩の供をして野方《のかた》で忠利の気に入っていた。主君にねだるようにして、殉死のお許しは受けたが、家老たちは皆言った。「ほかの方々は高禄《こうろく》を賜わって、栄耀《えよう》をしたのに、そちは殿様のお犬牽きではないか。そちが志は殊勝で、殿様のお許しが出たのは、この上もない誉《ほま》れじゃ。もうそれでよい。どうぞ死ぬることだけは思い止まって、御当主にご奉公してくれい」と言った。
五助はどうしても聴かずに、五月七日にいつも牽《ひ》いてお供をした犬を連れて、追廻田畑《おいまわしたはた》の高琳寺《こうりんじ》へ出かけた。女房は戸口まで見送りに出て、「お前も男じゃ、お歴々の衆に負けぬようにおしなされい」と言った。
津崎の家では往生院《おうじょういん》を菩提所にしていたが、往生院は上《かみ》のご由緒《ゆいしょ》のあるお寺だというのではばかって、高琳寺を死所《しにどころ》ときめたのである。五助が墓地にはいってみると、かねて介錯を頼んでおいた松野|縫殿助《ぬいのすけ》が先に来て待っていた。五助は肩にかけた浅葱《あさぎ》の嚢《ふくろ》をおろしてその中から飯行李《めしこうり》を出した。蓋《ふた》をあけると握り飯が二つはいっている。それを犬の前に置いた。犬はすぐに食おうともせず、尾をふって五助の顔を見ていた。五助は人間に言うように犬に言った。
「おぬしは畜生じゃから、知らずにおるかも知れぬが、おぬしの頭をさすって下されたことのある殿様は、もうお亡くなり遊ばされた。それでご恩になっていなされたお歴々は皆きょう腹を切ってお供をなさる。おれは下司《げす》ではあるが、御扶持《ごふち》を戴いてつないだ命はお歴々と変ったことはない。殿様にかわいがって戴いたありがたさも同じことじゃ。それでおれは今腹を切って死ぬるのじゃ。おれが死んでしもうたら、おぬしは今から野ら犬になるのじゃ。おれはそれがかわいそうでならん。殿様のお供をした鷹は岫雲院《しゅううんいん》で井戸に飛び込んで死んだ。どうじゃ。おぬしもおれと一しょに死のうとは思わんかい。もし野ら犬になっても、生きていたいと思うたら、この握り飯を食ってくれい。死にたいと思うなら、食うなよ」
こう言って犬の顔を見ていたが、犬は五助の顔ばかりを見ていて、握り飯を食おうとはしない。
「それならおぬしも死ぬるか」と言って、五助は犬をきっと見つめた。
犬は一声《ひとこえ》鳴いて尾をふった。
「よい。そんなら不便《ふびん》じゃが死んでくれい」こう言って五助は犬を抱き寄せて、脇差を抜いて、一刀に刺した。
五助は犬の死骸をかたわらへ置いた。そして懐中から一枚の書き物を出して、それを前にひろげて、小石を重りにして置いた。誰やらの邸《やしき》で歌の会のあったとき見覚えた通りに半紙を横に二つに折って、「家老衆はとまれとまれと仰せあれどとめてとまらぬこの五助|哉《かな》」と、常の詠草のように書いてある。署名はしてない。歌の中に五助としてあるから、二重に名を書かなくてもよいと、すなおに考えたのが、自然に故実にかなっていた。
もうこれで何も手落ちはないと思った五助は「松野様、お頼み申します」と言って、安座《あんざ》して肌《はだ》をくつろげた。そして犬の血のついたままの脇差を逆手《さかて》に持って、「お鷹匠衆《たかじょうしゅう》はどうなさりましたな、お犬牽《いぬひ》きは只今《ただいま》参りますぞ」と高声《たかごえ》に言って、一声|快《こころ》よげに笑って、腹を十文字に切った。松野が背後《うしろ》から首を打った。
五助は身分の軽いものではあるが、のちに殉死者の遺族の受けたほどの手当は、あとに残った後家が受けた。男子一人は小さいとき出家していたからである。後家は五人扶持をもらい、新たに家屋敷をもらって、忠利の三十三回忌のときまで存命していた。五助の甥の子が二代の五助となって、それからは代々|触組《ふれぐみ》で奉公していた。
忠利の許しを得て殉死した十八人のほかに、阿部弥一右衛門|通信《みちのぶ》というものがあった。初めは明石氏《あかしうじ》で、幼名を猪之助《いのすけ》といった。はやくから忠利の側近《そばちか》く仕えて、千百石余の身分になっている。島原征伐のとき、子供五人のうち三人まで軍功によって新知二百石ずつをもらった。この弥一右衛門は家中でも殉死するはずのように思い、当人もまた忠利の夜伽《よとぎ》に出る順番が来るたびに、殉死したいと言って願った。しかしどうしても忠利は許さない。「そちが志は満足に思うが、それよりは生きていて光尚《みつひさ》に奉公してくれい」と、何度願っても、同じことを繰り返して言うのである。
一体忠利は弥一右衛門の言うことを聴かぬ癖がついている。これはよほど古くからのことで、まだ猪之助といって小姓を勤めていたころも、猪之助が「ご膳《ぜん》を差し上げましょうか」と伺うと、「まだ空腹にはならぬ」と言う。ほかの小姓が申し上げると、「よい、出させい」と言う。忠利はこの男の顔を見ると、反対したくなるのである。そんなら叱られるかというと、そうでもない。この男ほど精勤をするものはなく、万事に気がついて、手ぬかりがないから、叱ろうといっても叱りようがない。
弥一右衛門はほかの人の言いつけられてすることを、言いつけられずにする。ほかの人の申し上げてすることを申し上げずにする。しかしすることはいつも肯綮《こうけい》にあたっていて、間然すべきところがない。弥一右衛門は意地ばかりで奉公して行くようになっている。忠利は初めなんとも思わずに、ただこの男の顔を見ると、反対したくなったのだが、のちにはこの男の意地で勤めるのを知って憎いと思った。憎いと思いながら、聡明《そうめい》な忠利はなぜ弥一右衛門がそうなったかと回想してみて、それは自分がしむけたのだということに気がついた。そして自分の反対する癖を改めようと思っていながら、月がかさなり年がかさなるにしたがって、それが次第に改めにくくなった。
人には誰《た》が上にも好きな人、いやな人というものがある。そしてなぜ好きだか、いやだかと穿鑿《せんさく》してみると、どうかすると捕捉《ほそく》するほどの拠《よ》りどころがない。忠利が弥一右衛門を好かぬのも、そんなわけである。しかし弥一右衛門という男はどこかに人と親しみがたいところを持っているに違いない。それは親しい友達の少いのでわかる。誰でも立派な侍として尊敬はする。しかしたやすく近づこうと試みるものがない。まれに物ずきに近づこうと試みるものがあっても、しばらくするうちに根気が続かなくなって遠ざかってしまう。まだ猪之助といって、前髪のあったとき、たびたび話をしかけたり、何かに手を借《か》してやったりしていた年上の男が、「どうも阿部にはつけ入る隙《ひま》がない」と言って我《が》を折った。そこらを考えてみると、忠利が自分の癖を改めたく思いながら改めることの出来なかったのも怪しむに足りない。
とにかく弥一右衛門は何度願っても殉死の許しを得ないでいるうちに、忠利は亡くなった。亡くなる少し前に、「弥一右衛門|奴《め》はお願いと申すことを申したことはござりません、これが生涯唯一《しょうがいゆいいつ》のお願いでござります」と言って、じっと忠利の顔を見ていたが、忠利もじっと顔を見返して、「いや、どうぞ光尚に奉公してくれい」と言い放った。
弥一右衛門はつくづく考えて決心した。自分の身分で、この場合に殉死せずに生き残って、家中のものに顔を合わせているということは、百人が百人|所詮《しょせん》出来ぬことと思うだろう。犬死と知って切腹するか、浪人して熊本を去るかのほか、しかたがあるまい。だがおれはおれだ。よいわ。武士は妾《めかけ》とは違う。主《しゅ》の気に入らぬからといって、立場がなくなるはずはない。こう思って一日一日と例のごとくに勤めていた。
そのうちに五月六日が来て、十八人のものが皆殉死した。熊本中ただその噂《うわさ》ばかりである。誰はなんと言って死
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