んだ、誰の死にようが誰よりも見事であったという話のほかには、なんの話もない。弥一右衛門は以前から人に用事のほかの話をしかけられたことは少かったが、五月七日からこっちは、御殿の詰所に出ていてみても、一層寂しい。それに相役が自分の顔を見ぬようにして見るのがわかる。そっと横から見たり、背後《うしろ》から見たりするのがわかる。不快でたまらない。それでもおれは命が惜しくて生きているのではない、おれをどれほど悪く思う人でも、命を惜しむ男だとはまさかに言うことが出来まい、たった今でも死んでよいのなら死んでみせると思うので、昂然《こうぜん》と項《うなじ》をそらして詰所へ出て、昂然と項をそらして詰所から引いていた。
二三日立つと、弥一右衛門が耳にけしからん噂が聞え出して来た。誰が言い出したことか知らぬが、「阿部はお許しのないを幸いに生きているとみえる、お許しはのうても追腹は切られぬはずがない、阿部の腹の皮は人とは違うとみえる、瓢箪《ひょうたん》に油でも塗って切ればよいに」というのである。弥一右衛門は聞いて思いのほかのことに思った。悪口が言いたくばなんとも言うがよい。しかしこの弥一右衛門を竪《たて》から見ても横から見ても、命の惜しい男とは、どうして見えようぞ。げに言えば言われたものかな、よいわ。そんならこの腹の皮を瓢箪に油を塗って切って見しょう。
弥一右衛門はその日詰所を引くと、急使をもって別家している弟二人を山崎の邸に呼び寄せた。居間と客間との間の建具をはずさせ、嫡子|権兵衛《ごんべえ》、二男|弥五兵衛《やごべえ》、つぎにまだ前髪のある五男|七之丞《しちのじょう》の三人をそばにおらせて、主人は威儀を正して待ち受けている。権兵衛は幼名権十郎といって、島原征伐に立派な働きをして、新知二百石をもらっている。父に劣らぬ若者である。このたびのことについては、ただ一度父に「お許しは出ませなんだか」と問うた。父は「うん、出んぞ」と言った。そのほか二人の間にはなんの詞《ことば》も交わされなかった。親子は心の底まで知り抜いているので、何も言うにはおよばぬのであった。
まもなく二張《ふたはり》の提燈《ちょうちん》が門のうちにはいった。三男|市太夫《いちだゆう》、四男|五太夫《ごだゆう》の二人がほとんど同時に玄関に来て、雨具を脱いで座敷に通った。中陰の翌日からじめじめとした雨になって、五月闇《さつきやみ》の空が晴れずにいるのである。
障子はあけ放してあっても、蒸し暑くて風がない。そのくせ燭台《しょくだい》の火はゆらめいている。螢《ほたる》が一匹庭の木立ちを縫って通り過ぎた。
一座を見渡した主人が口を開いた。「夜陰に呼びにやったのに、皆よう来てくれた。家中《かちゅう》一般の噂じゃというから、おぬしたちも聞いたに違いない。この弥一右衛門が腹は瓢箪に油を塗って切る腹じゃそうな。それじゃによって、おれは今瓢箪に油を塗って切ろうと思う。どうぞ皆で見届けてくれい」
市太夫も五太夫も島原の軍功で新知二百石をもらって別家しているが、中にも市太夫は早くから若殿附きになっていたので、御代替りになって人に羨《うらや》まれる一人である。市太夫が膝《ひざ》を進めた。「なるほど。ようわかりました。実は傍輩《ほうばい》が言うには、弥一右衛門殿は御先代の御遺言で続いて御奉公なさるそうな。親子兄弟相変らず揃《そろ》うてお勤めなさる、めでたいことじゃと言うのでござります。その詞《ことば》が何か意味ありげで歯がゆうござりました」
父弥一右衛門は笑った。「そうであろう。目の先ばかり見える近眼《ちかめ》どもを相手にするな。そこでその死なぬはずのおれが死んだら、お許しのなかったおれの子じゃというて、おぬしたちを侮《あなど》るものもあろう。おれの子に生まれたのは運じゃ。しょうことがない。恥を受けるときは一しょに受けい。兄弟|喧嘩《げんか》をするなよ。さあ、瓢箪で腹を切るのをよう見ておけ」
こう言っておいて、弥一右衛門は子供らの面前で切腹して、自分で首筋を左から右へ刺し貫いて死んだ。父の心を測りかねていた五人の子供らは、このとき悲しくはあったが、それと同時にこれまでの不安心な境界《きょうがい》を一歩離れて、重荷の一つをおろしたように感じた。
「兄《あに》き」と二男弥五兵衛が嫡子に言った。「兄弟喧嘩をするなと、お父《と》っさんは言いおいた。それには誰も異存はあるまい。おれは島原で持場が悪うて、知行ももらわずにいるから、これからはおぬしが厄介《やっかい》になるじゃろう。じゃが何事があっても、おぬしが手にたしかな槍《やり》一本はあるというものじゃ。そう思うていてくれい」
「知れたことじゃ。どうなることか知れぬが、おれがもらう知行はおぬしがもらうも同じじゃ」こう言ったぎり権兵衛は腕組みをして顔をしかめた。
「そうじゃ。どうなることか知れぬ。追腹はお許しの出た殉死とは違うなぞという奴《やつ》があろうて」こう言ったのは四男の五太夫である。
「それは目に見えておる。どういう目に逢《お》うても」こう言いさして三男市太夫は権兵衛の顔を見た。「どういう目に逢うても、兄弟離れ離れに相手にならずに、固まって行こうぞ」
「うん」と権兵衛は言ったが、打ち解けた様子もない。権兵衛は弟どもを心にいたわってはいるが、やさしく物をいわれぬ男である。それに何事も一人で考えて、一人でしたがる。相談というものをめったにしない。それで弥五兵衛も市太夫も念を押したのである。
「兄《に》いさま方が揃うておいでなさるから、お父っさんの悪口は、うかと言われますまい」これは前髪の七之丞が口から出た。女のような声ではあったが、それに強い信念が籠《こも》っていたので、一座のものの胸を、暗黒な前途を照らす光明のように照らした。
「どりゃ。おっ母さんに言うて、女子《おなご》たちに暇乞《いとまご》いをさしょうか」こう言って権兵衛が席を起った。
従四位下侍従兼肥後守光尚の家督相続が済んだ。家臣にはそれぞれ新知、加増、役替《やくが》えなどがあった。中にも殉死の侍十八人の家々は、嫡子にそのまま父のあとを継がせられた。嫡子のある限りは、いかに幼少でもその数には漏《も》れない。未亡人《びぼうじん》、老父母には扶持が与えられる。家屋敷を拝領して、作事までも上《かみ》からしむけられる。先代が格別|入懇《じっこん》にせられた家柄で、死天《しで》の旅のお供にさえ立ったのだから、家中のものが羨《うらや》みはしても妬《ねた》みはしない。
しかるに一種変った跡目《あとめ》の処分を受けたのは、阿部弥一右衛門の遺族である。嫡子権兵衛は父の跡をそのまま継ぐことが出来ずに、弥一右衛門が千五百石の知行は細かに割《さ》いて弟たちへも配分せられた。一族の知行を合わせてみれば、前に変ったことはないが、本家を継いだ権兵衛は、小身ものになったのである。権兵衛の肩幅のせまくなったことは言うまでもない。弟どもも一人一人の知行は殖《ふ》えながら、これまで千石以上の本家によって、大木の陰に立っているように思っていたのが、今は橡栗《どんぐり》の背競《せいくら》べになって、ありがたいようで迷惑な思いをした。
政道は地道《じみち》である限りは、咎《とが》めの帰するところを問うものはない。一旦《いったん》常に変った処置があると、誰の捌《さば》きかという詮議が起る。当主のお覚えめでたく、お側《そば》去らずに勤めている大目附役に、林外記というものがある。小才覚があるので、若殿様時代のお伽《とぎ》には相応していたが、物の大体を見ることにおいてはおよばぬところがあって、とかく苛察《かさつ》に傾きたがる男であった。阿部弥一右衛門は故殿様のお許しを得ずに死んだのだから、真の殉死者と弥一右衛門との間には境界をつけなくてはならぬと考えた。そこで阿部家の俸禄《ほうろく》分割の策を献じた。光尚も思慮ある大名ではあったが、まだ物馴《ものな》れぬときのことで、弥一右衛門や嫡子権兵衛と懇意でないために、思いやりがなく、自分の手元に使って馴染《なじ》みのある市太夫がために加増になるというところに目をつけて、外記の言を用いたのである。
十八人の侍が殉死したときには、弥一右衛門はお側に奉公していたのに殉死しないと言って、家中のものが卑《いや》しんだ。さてわずかに二三日を隔てて弥一右衛門は立派に切腹したが、事の当否は措《お》いて、一旦受けた侮辱は容易に消えがたく、誰も弥一右衛門を褒《ほ》めるものがない。上《かみ》では弥一右衛門の遺骸《いがい》を霊屋《おたまや》のかたわらに葬ることを許したのであるから、跡目相続の上にも強《し》いて境界を立てずにおいて、殉死者一同と同じ扱いをしてよかったのである。そうしたなら阿部一族は面目《めんぼく》を施して、こぞって忠勤を励んだのであろう。しかるに上《かみ》で一段下がった扱いをしたので、家中のものの阿部家|侮蔑《ぶべつ》の念が公《おおやけ》に認められた形になった。権兵衛兄弟は次第に傍輩《ほうばい》にうとんぜられて、怏々《おうおう》として日を送った。
寛永十九年三月十七日になった。先代の殿様の一週忌である。霊屋《おたまや》のそばにはまだ妙解寺《みょうげじ》は出来ていぬが、向陽院という堂宇《どうう》が立って、そこに妙解院殿の位牌《いはい》が安置せられ、鏡首座《きょうしゅざ》という僧が住持している。忌日《きにち》にさきだって、紫野大徳寺の天祐和尚《てんゆうおしょう》が京都から下向《げこう》する。年忌の営みは晴れ晴れしいものになるらしく、一箇月ばかり前から、熊本の城下は準備に忙しかった。
いよいよ当日になった。うららかな日和《ひより》で、霊屋のそばは桜の盛りである。向陽院の周囲には幕を引き廻わして、歩卒が警護している。当主がみずから臨場して、まず先代の位牌に焼香し、ついで殉死者十九人の位牌に焼香する。それから殉死者遺族が許されて焼香する、同時に御紋附|上下《かみしも》、同|時服《じふく》を拝領する。馬廻《うままわり》以上は長上下《なががみしも》、徒士《かち》は半上下《はんがみしも》である。下々《しもじも》の者は御香奠《ごこうでん》を拝領する。
儀式はとどこおりなく済んだが、その間にただ一つの珍事が出来《しゅったい》した。それは阿部権兵衛が殉死者遺族の一人として、席順によって妙解院殿の位牌の前に進んだとき、焼香をして退《の》きしなに、脇差の小柄《こづか》を抜き取って髻《もとどり》を押し切って、位牌の前に供えたことである。この場に詰めていた侍どもも、不意の出来事に驚きあきれて、茫然《ぼうぜん》として見ていたが、権兵衛が何事もないように、自若《じじゃく》として五六歩退いたとき、一人の侍がようよう我に返って、「阿部殿、お待ちなされい」と呼びかけながら、追いすがって押し止めた。続いて二三人立ちかかって、権兵衛を別間に連れてはいった。
権兵衛が詰衆《つめしゅう》に尋ねられて答えたところはこうである。貴殿らはそれがしを乱心者のように思われるであろうが、全くさようなわけではない。父弥一右衛門は一生|瑕瑾《かきん》のない御奉公をいたしたればこそ、故殿様のお許しを得ずに切腹しても、殉死者の列に加えられ、遺族たるそれがしさえ他人にさきだって御位牌に御焼香いたすことが出来たのである。しかしそれがしは不肖にして父同様の御奉公がなりがたいのを、上《かみ》にもご承知と見えて、知行を割《さ》いて弟どもにおつかわしなされた。それがしは故殿様にも御当主にも亡き父にも一族の者どもにも傍輩《ほうばい》にも面目がない。かように存じているうち、今日御位牌に御焼香いたす場合になり、とっさの間、感慨胸に迫り、いっそのこと武士を棄てようと決心いたした。お場所|柄《がら》を顧みざるお咎《とが》めは甘んじて受ける。乱心などはいたさぬというのである。
権兵衛の答を光尚は聞いて、不快に思った。第一に権兵衛が自分に面当《つらあ》てがましい所行《しょぎょう》をしたのが不快である。つぎに自分が外記の策を納《い》れて、しなくてもよいことをしたのが不快であ
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