る。まだ二十四歳の血気の殿様で、情を抑え欲を制することが足りない。恩をもって怨《うら》みに報いる寛大の心持ちに乏しい。即座に権兵衛をおし籠《こ》めさせた。それを聞いた弥五兵衛以下一族のものは門を閉じて上の御沙汰《ごさた》を待つことにして、夜陰に一同寄り合っては、ひそかに一族の前途のために評議を凝《こ》らした。
阿部一族は評議の末、このたび先代一週忌の法会《ほうえ》のために下向して、まだ逗留《とうりゅう》している天祐和尚にすがることにした。市太夫は和尚の旅館に往って一部始終を話して、権兵衛に対する上の処置を軽減してもらうように頼んだ。和尚はつくづく聞いて言った。承れば御一家のお成行《なりゆ》き気の毒千万である。しかし上の御政道に対してかれこれ言うことは出来ない。ただ権兵衛殿に死を賜わるとなったら、きっと御助命を願って進ぜよう。ことに権兵衛殿はすでに髻《もとどり》を払われてみれば、桑門《そうもん》同様の身の上である。御助命だけはいかようにも申してみようと言った。市太夫は頼もしく思って帰った。一族のものは市太夫の復命を聞いて、一条の活路を得たような気がした。そのうち日が立って、天祐和尚の帰京のときが次第に近づいて来た。和尚は殿様に逢《あ》って話をするたびに、阿部権兵衛が助命のことを折りがあったら言上しようと思ったが、どうしても折りがない。それはそのはずである。光尚はこう思ったのである。天祐和尚の逗留中に権兵衛のことを沙汰したらきっと助命を請われるに違いない。大寺の和尚の詞《ことば》でみれば、等閑《なおざり》に聞きすてることはなるまい。和尚の立つのを待って処置しようと思ったのである。とうとう和尚は空《むな》しく熊本を立ってしまった。
天祐和尚が熊本を立つや否や、光尚はすぐに阿部権兵衛を井出の口に引き出《い》だして縛首《しばりくび》にさせた。先代の御位牌に対して不敬なことをあえてした、上《かみ》を恐れぬ所行として処置せられたのである。
弥五兵衛以下一同のものは寄り集まって評議した。権兵衛の所行は不埓《ふらち》には違いない。しかし亡父弥一右衛門はとにかく殉死者のうちに数えられている。その相続人たる権兵衛でみれば、死を賜うことは是非《ぜひ》がない。武士らしく切腹仰せつけられれば異存はない。それに何事ぞ、奸盗《かんとう》かなんぞのように、白昼に縛首にせられた。この様子で推すれば、一族のものも安穏には差しおかれまい。たとい別に御沙汰がないにしても、縛首にせられたものの一族が、何の面目あって、傍輩に立ち交《まじ》わって御奉公をしよう。この上は是非におよばない。何事があろうとも、兄弟わかれわかれになるなと、弥一右衛門殿の言いおかれたのはこのときのことである。一族|討手《うって》を引き受けて、ともに死ぬるほかはないと、一人の異議を称えるものもなく決した。
阿部一族は妻子を引きまとめて、権兵衛が山崎の屋敷に立て籠《こも》った。
おだやかならぬ一族の様子が上《かみ》に聞えた。横目《よこめ》が偵察《ていさつ》に出て来た。山崎の屋敷では門を厳重に鎖《とざ》して静まりかえっていた。市太夫や五太夫の宅は空屋になっていた。
討手《うって》の手配《てくば》りが定められた。表門は側者頭《そばものがしら》竹内数馬長政《たけのうちかずまながまさ》が指揮役をして、それに小頭《こがしら》添島九兵衛《そえじまくへえ》、同じく野村|庄兵衛《しょうべえ》がしたがっている。数馬は千百五十石で鉄砲組三十|挺《ちょう》の頭《かしら》である。譜第《ふだい》の乙名《おとな》島徳右衛門が供をする。添島、野村は当時百石のものである。裏門の指揮役は知行五百石の側者頭高見権右衛門|重政《しげまさ》で、これも鉄砲組三十挺の頭である。それに目附畑十太夫と竹内数馬の小頭で当時百石の千場《ちば》作兵衛とがしたがっている。
討手は四月二十一日に差し向けられることになった。前晩に山崎の屋敷の周囲には夜廻りがつけられた。夜がふけてから侍分のものが一人覆面して、塀《へい》をうちから乗り越えて出たが、廻役の佐分利《さぶり》嘉左衛門が組の足軽丸山|三之丞《さんのじょう》が討ち取った。そののち夜明けまで何事もなかった。
かねて近隣のものには沙汰があった。たとい当番たりとも在宿して火の用心を怠らぬようにいたせというのが一つ。討手でないのに、阿部が屋敷に入り込んで手出しをすることは厳禁であるが、落人《おちうど》は勝手に討ち取れというのが二つであった。
阿部一族は討手の向う日をその前日に聞き知って、まず邸内を隈《くま》なく掃除し、見苦しい物はことごとく焼きすてた。それから老若《ろうにゃく》打ち寄って酒宴をした。それから老人や女は自殺し、幼いものはてんでに刺し殺した。それから庭に大きい穴を掘って死骸《しがい》を埋めた。あとに残ったのは究竟《くっきょう》の若者ばかりである。弥五兵衛、市太夫、五太夫、七之丞の四人が指図して、障子|襖《ふすま》を取り払った広間に家来を集めて、鉦太鼓《かねたいこ》を鳴らさせ、高声に念仏をさせて夜の明けるのを待った。これは老人や妻子を弔《とむら》うためだとは言ったが、実は下人《げにん》どもに臆病《おくびょう》の念を起させぬ用心であった。
阿部一族の立て籠った山崎の屋敷は、のちに斎藤勘助の住んだ所で、向いは山中又左衛門、左右両隣は柄本《つかもと》又七郎、平山三郎の住いであった。
このうちで柄本が家は、もと天草郡を三分して領していた柄本、天草、志岐《しき》の三家の一つである。小西行長が肥後半国を治めていたとき、天草、志岐は罪を犯して誅《ちゅう》せられ、柄本だけが残っていて、細川家に仕えた。
又七郎は平生阿部弥一右衛門が一家と心安くして、主人同志はもとより、妻女までも互いに往来していた。中にも弥一右衛門の二男弥五兵衛は鎗《やり》が得意で、又七郎も同じ技《わざ》を嗜《たし》むところから、親しい中で広言をし合って、「お手前が上手《じょうず》でもそれがしにはかなうまい」、「いやそれがしがなんでお手前に負けよう」などと言っていた。
そこで先代の殿様の病中に、弥一右衛門が殉死を願って許されぬと聞いたときから、又七郎は弥一右衛門の胸中を察して気の毒がった。それから弥一右衛門の追腹、家督相続人権兵衛の向陽院での振舞い、それがもとになっての死刑、弥五兵衛以下一族の立籠《たてこも》りという順序に、阿部家がだんだん否運に傾いて来たので、又七郎は親身のものにも劣らぬ心痛をした。
ある日又七郎が女房に言いつけて、夜ふけてから阿部の屋敷へ見舞いにやった。阿部一族は上《かみ》に叛《そむ》いて籠城めいたことをしているから、男同志は交通することが出来ない。しかるに最初からの行きがかりを知っていてみれば、一族のものを悪人として憎むことは出来ない。ましてや年来懇意にした間柄である。婦女の身としてひそかに見舞うのは、よしや後日に発覚したとて申しわけの立たぬことでもあるまいという考えで、見舞いにはやったのである。女房は夫の詞《ことば》を聞いて、喜んで心尽くしの品を取り揃えて、夜ふけて隣へおとずれた。これもなかなか気丈な女で、もし後日に発覚したら、罪を自身に引き受けて、夫に迷惑はかけまいと思ったのである。
阿部一族の喜びは非常であった。世間は花咲き鳥歌う春であるのに、不幸にして神仏にも人間にも見放されて、かく籠居《ろうきょ》している我々である。それを見舞うてやれという夫も夫、その言いつけを守って来てくれる妻も妻、実にありがたい心がけだと、心《しん》から感じた。女たちは涙を流して、こうなり果てて死ぬるからは、世の中に誰一人|菩提《ぼだい》を弔《とむろ》うてくれるものもあるまい、どうぞ思い出したら、一遍の回向《えこう》をしてもらいたいと頼んだ。子供たちは門外へ一足も出されぬので、ふだん優しくしてくれた柄本の女房を見て、右左から取りすがって、たやすく放して帰さなかった。
阿部の屋敷へ討手の向う前晩になった。柄本又七郎はつくづく考えた。阿部一族は自分と親しい間柄である。それで後日の咎《とが》めもあろうかとは思いながら、女房を見舞いにまでやった。しかしいよいよ明朝は上の討手が阿部家へ来る。これは逆賊を征伐せられるお上の軍《いくさ》も同じことである。御沙汰には火の用心をせい、手出しをするなと言ってあるが、武士たるものがこの場合に懐手《ふところで》をして見ていられたものではない。情けは情け、義は義である。おれにはせんようがあると考えた。そこで更闌《こうた》けて抜き足をして、後ろ口から薄暗い庭へ出て、阿部家との境の竹垣《たけがき》の結び縄《なわ》をことごとく切っておいた。それから帰って身支度をして、長押《なげし》にかけた手槍《てやり》をおろし、鷹《たか》の羽の紋の付いた鞘《さや》を払って、夜の明けるのを待っていた。
討手として阿部の屋敷の表門に向うことになった竹内数馬は、武道の誉れある家に生まれたものである。先祖は細川高国の手に属して、強弓《ごうきゅう》の名を得た島村|弾正貴則《だんじょうたかのり》である。享禄《きょうろく》四年に高国が摂津国《せっつのくに》尼崎《あまがさき》に敗れたとき、弾正は敵二人を両腋《りょうわき》に挟《はさ》んで海に飛び込んで死んだ。弾正の子市兵衛は河内の八隅家《やすみけ》に仕えて一時八隅と称したが、竹内越《たけのうちごえ》を領することになって、竹内《たけのうち》と改めた。竹内市兵衛の子吉兵衛は小西行長に仕えて、紀伊国《きいのくに》太田の城を水攻めにしたときの功で、豊臣太閤に白練《しろねり》に朱の日の丸の陣羽織をもらった。朝鮮征伐のときには小西家の人質として、李王宮に三年押し籠《こ》められていた。小西家が滅びてから、加藤清正に千石で召し出されていたが、主君と物争いをして白昼に熊本城下を立ち退《の》いた。加藤家の討手に備えるために、鉄砲に玉をこめ、火縄に火をつけて持たせて退いた。それを三斎が豊前で千石に召し抱えた。この吉兵衛に五人の男子があった。長男はやはり吉兵衛と名のったが、のち剃髪《ていはつ》して八隅|見山《けんざん》といった。二男は七郎右衛門、三男は次郎太夫、四男は八兵衛、五男がすなわち数馬である。
数馬は忠利の児小姓《こごしょう》を勤めて、島原征伐のとき殿様のそばにいた。寛永十五年二月二十五日細川の手のものが城を乗り取ろうとしたとき、数馬が「どうぞお先手《さきて》へおつかわし下されい」と忠利に願った。忠利は聴かなかった。押し返してねだるように願うと、忠利が立腹して、「小倅《こせがれ》、勝手にうせおれ」と叫んだ。数馬はそのとき十六歳である。「あっ」と言いさま駈け出すのを見送って、忠利が「怪我をするなよ」と声をかけた。乙名《おとな》島徳右衛門、草履取《ぞうりとり》一人、槍持《やりもち》一人があとから続いた。主従四人である。城から打ち出す鉄砲が烈《はげ》しいので、島が数馬の着ていた猩々緋《しょうじょうひ》の陣羽織の裾《すそ》をつかんであとへ引いた。数馬は振り切って城の石垣に攀《よ》じ登る。島も是非なくついて登る。とうとう城内にはいって働いて、数馬は手を負った。同じ場所から攻め入った柳川の立花|飛騨守宗茂《ひだのかみむねしげ》は七十二歳の古武者《ふるつわもの》で、このときの働きぶりを見ていたが、渡辺新弥、仲光内膳《なかみつないぜん》と数馬との三人が天晴《あっぱ》れであったと言って、三人へ連名の感状をやった。落城ののち、忠利は数馬に関兼光《せきかねみつ》の脇差をやって、禄を千百五十石に加増した。脇差は一尺八寸、直焼《すぐやき》無銘、横鑢《よこやすり》、銀の九曜《くよう》の三並《みつなら》びの目貫《めぬき》、赤銅縁《しゃくどうぶち》、金拵《きんごしら》えである。目貫の穴は二つあって、一つは鉛で填《う》めてあった。忠利はこの脇差を秘蔵していたので、数馬にやってからも、登城のときなどには、「数馬あの脇差を貸せ」と言って、借りて差したこともたびたびある。
光尚に阿部の討手を言いつけられて、数馬が
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