にへたばっていた。
 阿部一族は最初に弥五兵衛が切腹して、市太夫、五太夫、七之丞はとうとう皆深手に息が切れた。家来も多くは討死した。
 高見権右衛門は裏表の人数を集めて、阿部が屋敷の裏手にあった物置小屋を崩《くず》させて、それに火をかけた。風のない日の薄曇りの空に、煙がまっすぐにのぼって、遠方から見えた。それから火を踏み消して、あとを水でしめして引き上げた。台所にいた千場作兵衛、そのほか重手を負ったものは家来や傍輩が肩にかけて続いた。時刻はちょうど未《ひつじ》の刻であった。

 光尚はたびたび家中のおもだったものの家へ遊びに往くことがあったが、阿部一族を討ちにやった二十一日の日には、松野左京の屋敷へ払暁《ふつぎょう》から出かけた。
 館《やかた》のあるお花畠《はなばたけ》からは、山崎はすぐ向うになっているので、光尚が館を出るとき、阿部の屋敷の方角に人声物音がするのが聞こえた。
「今討ち入ったな」と言って、光尚は駕籠《かご》に乗った。
 駕籠がようよう一町ばかりいったとき、注進があった。竹内数馬が討死をしたことは、このときわかった。
 高見権右衛門は討手の総勢を率いて、光尚のいる松野の屋敷の前まで引き上げて、阿部の一族を残らず討ち取ったことを執奏してもらった。光尚はじきに逢おうと言って、権右衛門を書院の庭に廻らせた。
 ちょうど卯《う》の花の真っ白に咲いている垣《かき》の間に、小さい枝折戸《しおりど》のあるのをあけてはいって、権右衛門は芝生の上に突居《ついい》た。光尚が見て、「手を負ったな、一段骨折りであった」と声をかけた。黒羽二重《くろはぶたえ》の衣服が血みどれになって、それに引上げのとき小屋の火を踏み消したとき飛び散った炭や灰がまだらについていたのである。
「いえ。かすり創《きず》でござりまする」権右衛門は何者かに水落《みずおち》をしたたかつかれたが懐中していた鏡にあたって穂先がそれた。創はわずかに血を鼻紙ににじませただけである。
 権右衛門は討入りのときのめいめいの働きをくわしく言上して、第一の功を単身で弥五兵衛に深手を負わせた隣家の柄本又七郎に譲った。
「数馬はどうじゃった」
「表門から一足先に駈け込みましたので見届けません」
「さようか。皆のものに庭へはいれと言え」
 権右衛門が一同を呼び入れた。重手《おもで》で自宅へ舁《か》いて行かれた人たちのほかは、皆芝生に平伏した。働いたものは血によごれている、小屋を焼く手伝いばかりしたものは、灰ばかりあびている。その灰ばかりあびた中に、畑十太夫がいた。光尚が声をかけた。
「十太夫、そちの働きはどうじゃった」
「はっ」と言ったぎり黙って伏していた。十太夫は大兵《だいひょう》の臆病者で、阿部が屋敷の外をうろついていて、引上げの前に小屋に火をかけたとき、やっとおずおずはいったのである。最初討手を仰せつけられたときに、お次へ出るところを劍術者|新免武蔵《しんめんむさし》が見て、「冥加至極《みょうがしごく》のことじゃ、ずいぶんお手柄をなされい」と言って背中をぽんと打った。十太夫は色を失って、ゆるんでいた袴《はかま》の紐《ひも》を締め直そうとしたが、手がふるえて締まらなかったそうである。
 光尚は座を起つとき言った。「皆|出精《しゅっせい》であったぞ。帰って休息いたせ」

 竹内数馬の幼い娘には養子をさせて家督相続を許されたが、この家はのちに絶えた。高見権右衛門は三百石、千場作兵衛、野村庄兵衛は各《かく》五十石の加増を受けた。柄本又七郎へは米田監物《こめだけんもつ》が承って組頭|谷内蔵之允《たにくらのすけ》を使者にやって、賞詞《ほめことば》があった。親戚朋友《しんせきほうゆう》がよろこびを言いに来ると、又七郎は笑って、「元亀《げんき》天正のころは、城攻め野合せが朝夕の飯同様であった、阿部一族討取りなぞは茶の子の茶の子の朝茶の子じゃ」と言った。二年立って、正保元年の夏、又七郎は創が癒《い》えて光尚に拝謁《はいえつ》した。光尚は鉄砲十挺を預けて、「創が根治するように湯治がしたくばいたせ、また府外に別荘地をつかわすから、場所を望め」と言った。又七郎は益城《ましき》小池村に屋敷地をもらった。その背後が藪山《やぶやま》である。「藪山もつかわそうか」と、光尚が言わせた。又七郎はそれを辞退した。竹は平日もご用に立つ。戦争でもあると、竹束がたくさんいる。それを私《わたくし》に拝領しては気が済まぬというのである。そこで藪山は永代御預《えいたいおあず》けということになった。
 畑十太夫は追放せられた。竹内数馬の兄八兵衛は私に討手に加わりながら、弟の討死の場所に居合わせなかったので、閉門を仰せつけられた。また馬廻りの子で近習を勤めていた某《それがし》は、阿部の屋敷に近く住まっていたので、「火の用心をいたせ」と言って当番をゆるされ、父と一しょに屋根に上がって火の子を消していた。のちにせっかく当番をゆるされた思召《おぼしめ》しにそむいたと心づいてお暇《いとま》を願ったが、光尚は「そりゃ臆病ではない、以後はも少し気をつけるがよいぞ」と言って、そのまま勤めさせた。この近習は光尚の亡くなったとき殉死した。
 阿部一族の死骸は井出の口に引き出して、吟味せられた。白川で一人一人の創を洗ってみたとき、柄本又七郎の槍に胸板をつき抜かれた弥五兵衛の創は、誰の受けた創よりも立派であったので、又七郎はいよいよ面目を施した。
大正二年一月



底本:「日本の文学3 森鴎外(二)」中央公論社
   1972(昭和47)年10月20日発行
入力:真先芳秋
校正:進恵子
2000年2月14日公開
2001年1月22日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全7ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング