けまいと思ったのである。
 阿部一族の喜びは非常であった。世間は花咲き鳥歌う春であるのに、不幸にして神仏にも人間にも見放されて、かく籠居《ろうきょ》している我々である。それを見舞うてやれという夫も夫、その言いつけを守って来てくれる妻も妻、実にありがたい心がけだと、心《しん》から感じた。女たちは涙を流して、こうなり果てて死ぬるからは、世の中に誰一人|菩提《ぼだい》を弔《とむろ》うてくれるものもあるまい、どうぞ思い出したら、一遍の回向《えこう》をしてもらいたいと頼んだ。子供たちは門外へ一足も出されぬので、ふだん優しくしてくれた柄本の女房を見て、右左から取りすがって、たやすく放して帰さなかった。
 阿部の屋敷へ討手の向う前晩になった。柄本又七郎はつくづく考えた。阿部一族は自分と親しい間柄である。それで後日の咎《とが》めもあろうかとは思いながら、女房を見舞いにまでやった。しかしいよいよ明朝は上の討手が阿部家へ来る。これは逆賊を征伐せられるお上の軍《いくさ》も同じことである。御沙汰には火の用心をせい、手出しをするなと言ってあるが、武士たるものがこの場合に懐手《ふところで》をして見ていられたもので
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