で、霊屋のそばは桜の盛りである。向陽院の周囲には幕を引き廻わして、歩卒が警護している。当主がみずから臨場して、まず先代の位牌に焼香し、ついで殉死者十九人の位牌に焼香する。それから殉死者遺族が許されて焼香する、同時に御紋附|上下《かみしも》、同|時服《じふく》を拝領する。馬廻《うままわり》以上は長上下《なががみしも》、徒士《かち》は半上下《はんがみしも》である。下々《しもじも》の者は御香奠《ごこうでん》を拝領する。
儀式はとどこおりなく済んだが、その間にただ一つの珍事が出来《しゅったい》した。それは阿部権兵衛が殉死者遺族の一人として、席順によって妙解院殿の位牌の前に進んだとき、焼香をして退《の》きしなに、脇差の小柄《こづか》を抜き取って髻《もとどり》を押し切って、位牌の前に供えたことである。この場に詰めていた侍どもも、不意の出来事に驚きあきれて、茫然《ぼうぜん》として見ていたが、権兵衛が何事もないように、自若《じじゃく》として五六歩退いたとき、一人の侍がようよう我に返って、「阿部殿、お待ちなされい」と呼びかけながら、追いすがって押し止めた。続いて二三人立ちかかって、権兵衛を別間に連れて
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