《ほ》めるものがない。上《かみ》では弥一右衛門の遺骸《いがい》を霊屋《おたまや》のかたわらに葬ることを許したのであるから、跡目相続の上にも強《し》いて境界を立てずにおいて、殉死者一同と同じ扱いをしてよかったのである。そうしたなら阿部一族は面目《めんぼく》を施して、こぞって忠勤を励んだのであろう。しかるに上《かみ》で一段下がった扱いをしたので、家中のものの阿部家|侮蔑《ぶべつ》の念が公《おおやけ》に認められた形になった。権兵衛兄弟は次第に傍輩《ほうばい》にうとんぜられて、怏々《おうおう》として日を送った。
 寛永十九年三月十七日になった。先代の殿様の一週忌である。霊屋《おたまや》のそばにはまだ妙解寺《みょうげじ》は出来ていぬが、向陽院という堂宇《どうう》が立って、そこに妙解院殿の位牌《いはい》が安置せられ、鏡首座《きょうしゅざ》という僧が住持している。忌日《きにち》にさきだって、紫野大徳寺の天祐和尚《てんゆうおしょう》が京都から下向《げこう》する。年忌の営みは晴れ晴れしいものになるらしく、一箇月ばかり前から、熊本の城下は準備に忙しかった。
 いよいよ当日になった。うららかな日和《ひより》
前へ 次へ
全65ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング