やみ》の空が晴れずにいるのである。
障子はあけ放してあっても、蒸し暑くて風がない。そのくせ燭台《しょくだい》の火はゆらめいている。螢《ほたる》が一匹庭の木立ちを縫って通り過ぎた。
一座を見渡した主人が口を開いた。「夜陰に呼びにやったのに、皆よう来てくれた。家中《かちゅう》一般の噂じゃというから、おぬしたちも聞いたに違いない。この弥一右衛門が腹は瓢箪に油を塗って切る腹じゃそうな。それじゃによって、おれは今瓢箪に油を塗って切ろうと思う。どうぞ皆で見届けてくれい」
市太夫も五太夫も島原の軍功で新知二百石をもらって別家しているが、中にも市太夫は早くから若殿附きになっていたので、御代替りになって人に羨《うらや》まれる一人である。市太夫が膝《ひざ》を進めた。「なるほど。ようわかりました。実は傍輩《ほうばい》が言うには、弥一右衛門殿は御先代の御遺言で続いて御奉公なさるそうな。親子兄弟相変らず揃《そろ》うてお勤めなさる、めでたいことじゃと言うのでござります。その詞《ことば》が何か意味ありげで歯がゆうござりました」
父弥一右衛門は笑った。「そうであろう。目の先ばかり見える近眼《ちかめ》どもを相手
前へ
次へ
全65ページ中33ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング