見ても横から見ても、命の惜しい男とは、どうして見えようぞ。げに言えば言われたものかな、よいわ。そんならこの腹の皮を瓢箪に油を塗って切って見しょう。
弥一右衛門はその日詰所を引くと、急使をもって別家している弟二人を山崎の邸に呼び寄せた。居間と客間との間の建具をはずさせ、嫡子|権兵衛《ごんべえ》、二男|弥五兵衛《やごべえ》、つぎにまだ前髪のある五男|七之丞《しちのじょう》の三人をそばにおらせて、主人は威儀を正して待ち受けている。権兵衛は幼名権十郎といって、島原征伐に立派な働きをして、新知二百石をもらっている。父に劣らぬ若者である。このたびのことについては、ただ一度父に「お許しは出ませなんだか」と問うた。父は「うん、出んぞ」と言った。そのほか二人の間にはなんの詞《ことば》も交わされなかった。親子は心の底まで知り抜いているので、何も言うにはおよばぬのであった。
まもなく二張《ふたはり》の提燈《ちょうちん》が門のうちにはいった。三男|市太夫《いちだゆう》、四男|五太夫《ごだゆう》の二人がほとんど同時に玄関に来て、雨具を脱いで座敷に通った。中陰の翌日からじめじめとした雨になって、五月闇《さつき
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