た。井の底にくぐり入って死んだのは、忠利が愛していた有明《ありあけ》、明石《あかし》という二羽の鷹であった。そのことがわかったとき、人々の間に、「それではお鷹も殉死《じゅんし》したのか」とささやく声が聞えた。それは殿様がお隠れになった当日から一昨日《おとつい》までに殉死した家臣が十余人あって、中にも一昨日は八人一時に切腹し、昨日《きのう》も一人切腹したので、家中誰《かちゅうたれ》一|人《にん》殉死のことを思わずにいるものはなかったからである。二羽の鷹はどういう手ぬかりで鷹匠衆の手を離れたか、どうして目に見えぬ獲物《えもの》を追うように、井戸の中に飛び込んだか知らぬが、それを穿鑿《せんさく》しようなどと思うものは一人もない。鷹は殿様のご寵愛《ちょうあい》なされたもので、それが荼※[#「たへん」に「比」、18−上7]の当日に、しかもお荼※[#「たへん」に「比」、18−上8]所の岫雲院の井戸にはいって死んだというだけの事実を見て、鷹が殉死したのだという判断をするには十分であった。それを疑って別に原因を尋ねようとする余地はなかったのである。
中陰の四十九日が五月五日に済んだ。これまでは宗玄をはじめとして、既西堂《きせいどう》、金両堂《こんりょうどう》、天授庵《てんじゅあん》、聴松院《ちょうしょういん》、不二庵《ふじあん》等の僧侶《そうりょ》が勤行《ごんぎょう》をしていたのである。さて五月六日になったが、まだ殉死する人がぽつぽつある。殉死する本人や親兄弟妻子は言うまでもなく、なんの由縁《ゆかり》もないものでも、京都から来るお針医と江戸から下る御上使との接待の用意なんぞはうわの空でしていて、ただ殉死のことばかり思っている。例年|簷《のき》に葺《ふ》く端午の菖蒲《しょうぶ》も摘《つ》まず、ましてや初幟《はつのぼり》の祝をする子のある家も、その子の生まれたことを忘れたようにして、静まり返っている。
殉死にはいつどうしてきまったともなく、自然に掟《おきて》が出来ている。どれほど殿様を大切に思えばといって、誰でも勝手に殉死が出来るものではない。泰平《たいへい》の世の江戸参勤のお供、いざ戦争というときの陣中へのお供と同じことで、死天《しで》の山|三途《さんず》の川のお供をするにもぜひ殿様のお許しを得なくてはならない。その許しもないのに死んでは、それは犬死《いぬじに》である。武士は名
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