を荼※[#「たへん」に「比」、17−上12]《だび》にして、高麗門《こうらいもん》の外の山に葬った。この霊屋《みたまや》の下に、翌年の冬になって、護国山《ごこくざん》妙解寺《みょうげじ》が建立《こんりゅう》せられて、江戸品川東海寺から沢庵和尚《たくあんおしょう》の同門の啓室和尚が来て住持になり、それが寺内の臨流庵《りんりゅうあん》に隠居してから、忠利の二男で出家していた宗玄が、天岸和尚と号して跡つぎになるのである。忠利の法号は妙解院殿《みょうげいんでん》台雲宗伍大居士《たいうんそうごだいこじ》とつけられた。
岫雲院で荼※[#「たへん」に「比」、17−上19]《だび》になったのは、忠利の遺言によったのである。いつのことであったか、忠利が方目狩《ばんがり》に出て、この岫雲院で休んで茶を飲んだことがある。そのとき忠利はふと腮髯《あごひげ》の伸びているのに気がついて住持に剃刀《かみそり》はないかと言った。住持が盥《たらい》に水を取って、剃刀を添えて出した。忠利は機嫌《きげん》よく児小姓《こごしょう》に髯を剃《そ》らせながら、住持に言った。「どうじゃな。この剃刀では亡者《もうじゃ》の頭をたくさん剃ったであろうな」と言った。住持はなんと返事をしていいかわからぬので、ひどく困った。このときから忠利は岫雲院の住持と心安くなっていたので、荼※[#「たへん」に「比」、17−下5]所《だびしょ》をこの寺にきめたのである。ちょうど荼※[#「たへん」に「比」、17−下6]の最中であった。柩《ひつぎ》の供をして来ていた家臣たちの群れに、「あれ、お鷹がお鷹が」と言う声がした。境内《けいだい》の杉《すぎ》の木立ちに限られて、鈍い青色をしている空の下、円形の石の井筒《いづつ》の上に笠《かさ》のように垂れかかっている葉桜の上の方に、二羽の鷹が輪をかいて飛んでいたのである。人々が不思議がって見ているうちに、二羽が尾と嘴《くちばし》と触れるようにあとさきに続いて、さっと落して来て、桜の下の井の中にはいった。寺の門前でしばらく何かを言い争っていた五六人の中から、二人の男が駈《か》け出して、井の端《はた》に来て、石の井筒に手をかけて中をのぞいた。そのとき鷹は水底深く沈んでしまって、歯朶《しだ》の茂みの中に鏡のように光っている水面は、もうもとの通りに平らになっていた。二人の男は鷹匠衆《たかじょうしゅう》であっ
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