娘を将軍が養女にして妻《めあわ》せた人で、今年四十五歳になっている。名をお千《せん》の方《かた》という。嫡子《ちゃくし》六丸は六年前に元服して将軍家から光《みつ》の字を賜わり、光貞《みつさだ》と名のって、従四位下|侍従《じじゅう》兼|肥後守《ひごのかみ》にせられている。今年十七歳である。江戸参勤中で遠江国《とおとうみのくに》浜松まで帰ったが、訃音《ふいん》を聞いて引き返した。光貞はのち名を光尚《みつひさ》と改めた。二男|鶴千代《つるちよ》は小さいときから立田山の泰勝寺《たいしょうじ》にやってある。京都妙心寺出身の大淵和尚《たいえんおしょう》の弟子になって宗玄といっている。三男松之助は細川家に旧縁のある長岡氏に養われている。四男勝千代は家臣南条|大膳《だいぜん》の養子になっている。女子は二人ある。長女|藤姫《ふじひめ》は松平|周防守《すおうのかみ》忠弘《ただひろ》の奥方になっている。二女竹姫はのちに有吉《ありよし》頼母《たのも》英長《ひでなが》の妻になる人である。弟には忠利が三斎《さんさい》の三男に生まれたので、四男|中務《なかつかさ》大輔《たゆう》立孝《たつたか》、五男|刑部《ぎょうぶ》興孝《おきたか》、六男長岡式部|寄之《よりゆき》の三人がある。妹《いもと》には稲葉|一通《かずみち》に嫁した多羅姫《たらひめ》、烏丸《からすまる》中納言《ちゅうなごん》光賢《みつかた》に嫁した万姫《まんひめ》がある。この万姫の腹に生まれた禰々姫《ねねひめ》が忠利の嫡子光尚の奥方になって来るのである。目上には長岡氏を名のる兄が二人、前野長岡両家に嫁した姉が二人ある。隠居三斎|宗立《そうりゅう》もまだ存命で、七十九歳になっている。この中には嫡子光貞のように江戸にいたり、また京都、そのほか遠国にいる人だちもあるが、それがのちに知らせを受けて歎《なげ》いたのと違って、熊本の館《やかた》にいた限りの人だちの歎きは、わけて痛切なものであった。江戸への注進には六島少吉《むつしましょうきち》、津田六左衛門の二人が立った。
三月二十四日には初七日《しょなぬか》の営みがあった。四月二十八日にはそれまで館の居間の床板《とこいた》を引き放って、土中に置いてあった棺《かん》を舁《か》き上げて、江戸からの指図《さしず》によって、飽田郡《あきたごおり》春日村《かすがむら》岫雲院《しゅううんいん》で遺骸《いがい》
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