聞《みょうもん》が大切だから、犬死はしない。敵陣に飛び込んで討死《うちじに》をするのは立派ではあるが、軍令にそむいて抜駈《ぬけが》けをして死んでは功にはならない。それが犬死であると同じことで、お許しのないに殉死しては、これも犬死である。たまにそういう人で犬死にならないのは、値遇《ちぐう》を得た君臣の間に黙契があって、お許しはなくてもお許しがあったのと変らぬのである。仏涅槃《ぶつねはん》ののちに起った大乗の教えは、仏《ほとけ》のお許しはなかったが、過現未《かげんみ》を通じて知らぬことのない仏は、そういう教えが出て来るものだと知って懸許《けんきょ》しておいたものだとしてある。お許しがないのに殉死の出来るのは、金口《こんぐ》で説かれると同じように、大乗の教えを説くようなものであろう。
 そんならどうしてお許しを得るかというと、このたび殉死した人々の中の内藤長十郎|元続《もとつぐ》が願った手段などがよい例である。長十郎は平生《へいぜい》忠利の机廻りの用を勤めて、格別のご懇意をこうむったもので、病床を離れずに介抱をしていた。もはや本復は覚束《おぼつか》ないと、忠利が悟ったとき、長十郎に「末期《まつご》が近うなったら、あの不二と書いてある大文字の懸物《かけもの》を枕もとにかけてくれ」と言いつけておいた。三月十七日に容態が次第に重くなって、忠利が「あの懸物をかけえ」と言った。長十郎はそれをかけた。忠利はそれを一目見て、しばらく瞑目《めいもく》していた。それから忠利が「足がだるい」と言った。長十郎は掻巻《かいまき》の裾《すそ》をしずかにまくって、忠利の足をさすりながら、忠利の顔をじっと見ると、忠利もじっと見返した。
「長十郎お願いがござりまする」
「なんじゃ」
「ご病気はいかにもご重体のようにはお見受け申しまするが、神仏の加護良薬の功験で、一日も早うご全快遊ばすようにと、祈願いたしておりまする。それでも万一と申すことがござりまする。もしものことがござりましたら、どうぞ長十郎|奴《め》にお供を仰せつけられますように」
 こう言いながら長十郎は忠利の足をそっと持ち上げて、自分の額《ひたい》に押し当てて戴いた。目には涙が一ぱい浮かんでいた。
「それはいかんぞよ」こう言って忠利は今まで長十郎と顔を見合わせていたのに、半分寝返りをするように脇《わき》を向いた。
「どうぞそうおっしゃらずに」長
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