を埋めた。あとに残ったのは究竟《くっきょう》の若者ばかりである。弥五兵衛、市太夫、五太夫、七之丞の四人が指図して、障子|襖《ふすま》を取り払った広間に家来を集めて、鉦太鼓《かねたいこ》を鳴らさせ、高声に念仏をさせて夜の明けるのを待った。これは老人や妻子を弔《とむら》うためだとは言ったが、実は下人《げにん》どもに臆病《おくびょう》の念を起させぬ用心であった。
阿部一族の立て籠った山崎の屋敷は、のちに斎藤勘助の住んだ所で、向いは山中又左衛門、左右両隣は柄本《つかもと》又七郎、平山三郎の住いであった。
このうちで柄本が家は、もと天草郡を三分して領していた柄本、天草、志岐《しき》の三家の一つである。小西行長が肥後半国を治めていたとき、天草、志岐は罪を犯して誅《ちゅう》せられ、柄本だけが残っていて、細川家に仕えた。
又七郎は平生阿部弥一右衛門が一家と心安くして、主人同志はもとより、妻女までも互いに往来していた。中にも弥一右衛門の二男弥五兵衛は鎗《やり》が得意で、又七郎も同じ技《わざ》を嗜《たし》むところから、親しい中で広言をし合って、「お手前が上手《じょうず》でもそれがしにはかなうまい」、「いやそれがしがなんでお手前に負けよう」などと言っていた。
そこで先代の殿様の病中に、弥一右衛門が殉死を願って許されぬと聞いたときから、又七郎は弥一右衛門の胸中を察して気の毒がった。それから弥一右衛門の追腹、家督相続人権兵衛の向陽院での振舞い、それがもとになっての死刑、弥五兵衛以下一族の立籠《たてこも》りという順序に、阿部家がだんだん否運に傾いて来たので、又七郎は親身のものにも劣らぬ心痛をした。
ある日又七郎が女房に言いつけて、夜ふけてから阿部の屋敷へ見舞いにやった。阿部一族は上《かみ》に叛《そむ》いて籠城めいたことをしているから、男同志は交通することが出来ない。しかるに最初からの行きがかりを知っていてみれば、一族のものを悪人として憎むことは出来ない。ましてや年来懇意にした間柄である。婦女の身としてひそかに見舞うのは、よしや後日に発覚したとて申しわけの立たぬことでもあるまいという考えで、見舞いにはやったのである。女房は夫の詞《ことば》を聞いて、喜んで心尽くしの品を取り揃えて、夜ふけて隣へおとずれた。これもなかなか気丈な女で、もし後日に発覚したら、罪を自身に引き受けて、夫に迷惑はか
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