れば、一族のものも安穏には差しおかれまい。たとい別に御沙汰がないにしても、縛首にせられたものの一族が、何の面目あって、傍輩に立ち交《まじ》わって御奉公をしよう。この上は是非におよばない。何事があろうとも、兄弟わかれわかれになるなと、弥一右衛門殿の言いおかれたのはこのときのことである。一族|討手《うって》を引き受けて、ともに死ぬるほかはないと、一人の異議を称えるものもなく決した。
 阿部一族は妻子を引きまとめて、権兵衛が山崎の屋敷に立て籠《こも》った。
 おだやかならぬ一族の様子が上《かみ》に聞えた。横目《よこめ》が偵察《ていさつ》に出て来た。山崎の屋敷では門を厳重に鎖《とざ》して静まりかえっていた。市太夫や五太夫の宅は空屋になっていた。
 討手《うって》の手配《てくば》りが定められた。表門は側者頭《そばものがしら》竹内数馬長政《たけのうちかずまながまさ》が指揮役をして、それに小頭《こがしら》添島九兵衛《そえじまくへえ》、同じく野村|庄兵衛《しょうべえ》がしたがっている。数馬は千百五十石で鉄砲組三十|挺《ちょう》の頭《かしら》である。譜第《ふだい》の乙名《おとな》島徳右衛門が供をする。添島、野村は当時百石のものである。裏門の指揮役は知行五百石の側者頭高見権右衛門|重政《しげまさ》で、これも鉄砲組三十挺の頭である。それに目附畑十太夫と竹内数馬の小頭で当時百石の千場《ちば》作兵衛とがしたがっている。
 討手は四月二十一日に差し向けられることになった。前晩に山崎の屋敷の周囲には夜廻りがつけられた。夜がふけてから侍分のものが一人覆面して、塀《へい》をうちから乗り越えて出たが、廻役の佐分利《さぶり》嘉左衛門が組の足軽丸山|三之丞《さんのじょう》が討ち取った。そののち夜明けまで何事もなかった。
 かねて近隣のものには沙汰があった。たとい当番たりとも在宿して火の用心を怠らぬようにいたせというのが一つ。討手でないのに、阿部が屋敷に入り込んで手出しをすることは厳禁であるが、落人《おちうど》は勝手に討ち取れというのが二つであった。
 阿部一族は討手の向う日をその前日に聞き知って、まず邸内を隈《くま》なく掃除し、見苦しい物はことごとく焼きすてた。それから老若《ろうにゃく》打ち寄って酒宴をした。それから老人や女は自殺し、幼いものはてんでに刺し殺した。それから庭に大きい穴を掘って死骸《しがい》
前へ 次へ
全33ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング