けまいと思ったのである。
阿部一族の喜びは非常であった。世間は花咲き鳥歌う春であるのに、不幸にして神仏にも人間にも見放されて、かく籠居《ろうきょ》している我々である。それを見舞うてやれという夫も夫、その言いつけを守って来てくれる妻も妻、実にありがたい心がけだと、心《しん》から感じた。女たちは涙を流して、こうなり果てて死ぬるからは、世の中に誰一人|菩提《ぼだい》を弔《とむろ》うてくれるものもあるまい、どうぞ思い出したら、一遍の回向《えこう》をしてもらいたいと頼んだ。子供たちは門外へ一足も出されぬので、ふだん優しくしてくれた柄本の女房を見て、右左から取りすがって、たやすく放して帰さなかった。
阿部の屋敷へ討手の向う前晩になった。柄本又七郎はつくづく考えた。阿部一族は自分と親しい間柄である。それで後日の咎《とが》めもあろうかとは思いながら、女房を見舞いにまでやった。しかしいよいよ明朝は上の討手が阿部家へ来る。これは逆賊を征伐せられるお上の軍《いくさ》も同じことである。御沙汰には火の用心をせい、手出しをするなと言ってあるが、武士たるものがこの場合に懐手《ふところで》をして見ていられたものではない。情けは情け、義は義である。おれにはせんようがあると考えた。そこで更闌《こうた》けて抜き足をして、後ろ口から薄暗い庭へ出て、阿部家との境の竹垣《たけがき》の結び縄《なわ》をことごとく切っておいた。それから帰って身支度をして、長押《なげし》にかけた手槍《てやり》をおろし、鷹《たか》の羽の紋の付いた鞘《さや》を払って、夜の明けるのを待っていた。
討手として阿部の屋敷の表門に向うことになった竹内数馬は、武道の誉れある家に生まれたものである。先祖は細川高国の手に属して、強弓《ごうきゅう》の名を得た島村|弾正貴則《だんじょうたかのり》である。享禄《きょうろく》四年に高国が摂津国《せっつのくに》尼崎《あまがさき》に敗れたとき、弾正は敵二人を両腋《りょうわき》に挟《はさ》んで海に飛び込んで死んだ。弾正の子市兵衛は河内の八隅家《やすみけ》に仕えて一時八隅と称したが、竹内越《たけのうちごえ》を領することになって、竹内《たけのうち》と改めた。竹内市兵衛の子吉兵衛は小西行長に仕えて、紀伊国《きいのくに》太田の城を水攻めにしたときの功で、豊臣太閤に白練《しろねり》に朱の日の丸の陣羽織をもらった。朝鮮
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