ろを問うものはない。一旦《いったん》常に変った処置があると、誰の捌《さば》きかという詮議が起る。当主のお覚えめでたく、お側《そば》去らずに勤めている大目附役に、林外記というものがある。小才覚があるので、若殿様時代のお伽《とぎ》には相応していたが、物の大体を見ることにおいてはおよばぬところがあって、とかく苛察《かさつ》に傾きたがる男であった。阿部弥一右衛門は故殿様のお許しを得ずに死んだのだから、真の殉死者と弥一右衛門との間には境界をつけなくてはならぬと考えた。そこで阿部家の俸禄《ほうろく》分割の策を献じた。光尚も思慮ある大名ではあったが、まだ物馴《ものな》れぬときのことで、弥一右衛門や嫡子権兵衛と懇意でないために、思いやりがなく、自分の手元に使って馴染《なじ》みのある市太夫がために加増になるというところに目をつけて、外記の言を用いたのである。
十八人の侍が殉死したときには、弥一右衛門はお側に奉公していたのに殉死しないと言って、家中のものが卑《いや》しんだ。さてわずかに二三日を隔てて弥一右衛門は立派に切腹したが、事の当否は措《お》いて、一旦受けた侮辱は容易に消えがたく、誰も弥一右衛門を褒《ほ》めるものがない。上《かみ》では弥一右衛門の遺骸《いがい》を霊屋《おたまや》のかたわらに葬ることを許したのであるから、跡目相続の上にも強《し》いて境界を立てずにおいて、殉死者一同と同じ扱いをしてよかったのである。そうしたなら阿部一族は面目《めんぼく》を施して、こぞって忠勤を励んだのであろう。しかるに上《かみ》で一段下がった扱いをしたので、家中のものの阿部家|侮蔑《ぶべつ》の念が公《おおやけ》に認められた形になった。権兵衛兄弟は次第に傍輩《ほうばい》にうとんぜられて、怏々《おうおう》として日を送った。
寛永十九年三月十七日になった。先代の殿様の一週忌である。霊屋《おたまや》のそばにはまだ妙解寺《みょうげじ》は出来ていぬが、向陽院という堂宇《どうう》が立って、そこに妙解院殿の位牌《いはい》が安置せられ、鏡首座《きょうしゅざ》という僧が住持している。忌日《きにち》にさきだって、紫野大徳寺の天祐和尚《てんゆうおしょう》が京都から下向《げこう》する。年忌の営みは晴れ晴れしいものになるらしく、一箇月ばかり前から、熊本の城下は準備に忙しかった。
いよいよ当日になった。うららかな日和《ひより》
前へ
次へ
全33ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング