で、霊屋のそばは桜の盛りである。向陽院の周囲には幕を引き廻わして、歩卒が警護している。当主がみずから臨場して、まず先代の位牌に焼香し、ついで殉死者十九人の位牌に焼香する。それから殉死者遺族が許されて焼香する、同時に御紋附|上下《かみしも》、同|時服《じふく》を拝領する。馬廻《うままわり》以上は長上下《なががみしも》、徒士《かち》は半上下《はんがみしも》である。下々《しもじも》の者は御香奠《ごこうでん》を拝領する。
儀式はとどこおりなく済んだが、その間にただ一つの珍事が出来《しゅったい》した。それは阿部権兵衛が殉死者遺族の一人として、席順によって妙解院殿の位牌の前に進んだとき、焼香をして退《の》きしなに、脇差の小柄《こづか》を抜き取って髻《もとどり》を押し切って、位牌の前に供えたことである。この場に詰めていた侍どもも、不意の出来事に驚きあきれて、茫然《ぼうぜん》として見ていたが、権兵衛が何事もないように、自若《じじゃく》として五六歩退いたとき、一人の侍がようよう我に返って、「阿部殿、お待ちなされい」と呼びかけながら、追いすがって押し止めた。続いて二三人立ちかかって、権兵衛を別間に連れてはいった。
権兵衛が詰衆《つめしゅう》に尋ねられて答えたところはこうである。貴殿らはそれがしを乱心者のように思われるであろうが、全くさようなわけではない。父弥一右衛門は一生|瑕瑾《かきん》のない御奉公をいたしたればこそ、故殿様のお許しを得ずに切腹しても、殉死者の列に加えられ、遺族たるそれがしさえ他人にさきだって御位牌に御焼香いたすことが出来たのである。しかしそれがしは不肖にして父同様の御奉公がなりがたいのを、上《かみ》にもご承知と見えて、知行を割《さ》いて弟どもにおつかわしなされた。それがしは故殿様にも御当主にも亡き父にも一族の者どもにも傍輩《ほうばい》にも面目がない。かように存じているうち、今日御位牌に御焼香いたす場合になり、とっさの間、感慨胸に迫り、いっそのこと武士を棄てようと決心いたした。お場所|柄《がら》を顧みざるお咎《とが》めは甘んじて受ける。乱心などはいたさぬというのである。
権兵衛の答を光尚は聞いて、不快に思った。第一に権兵衛が自分に面当《つらあ》てがましい所行《しょぎょう》をしたのが不快である。つぎに自分が外記の策を納《い》れて、しなくてもよいことをしたのが不快であ
前へ
次へ
全33ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング