ね。」
「はい。あの外にはゐません。きのふ一名逃亡しました。」
「逃亡者がありますか。名前は。」
「マルヒユスと云ふ奴です。」
「マルヒユスですか。目の光る、日に焼けた、髪の黒い男ぢやありませんか。」名を聞いて耳を欹《そばだ》てたフロルスは、怜《うれ》しげな声でかう云つた。
「はい。仰やる通の男です。」獄吏は頷いて答へた。
監獄の門を出た時、フロルスはこれまでになく晴々した気色をしてゐた。子供のやうに饒舌《しやべ》り続けて縁にはまだ暈《くま》のある目が赫いた。
「どうだい。ムンムス爺《ぢゝ》い。あれを見い。こんな長閑《のどか》な空を見たことがあるかい。木の葉や草花がこんなに可哀《かはい》らしく見えたことがあるかい。これからお前と二人でぶら/\歩いて別荘に往かう。己は桜ん坊を食つて、牛乳を牛の乳房から飲まう。そして気楽に日を暮さう。お前田舎の娘を一人世話をしてくれ。枯草や山羊の香のする娘だな。少しは葱臭くても好い。あの※[#「やまいだれ+音」、第3水準1−88−52]《をし》のルカスは別荘へは呼ばないで置かう。どうだい。ムンムス爺い。けふのやうに己の元気の好かつた事があるかい。あの雲を
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