しわたしがさうしようと思つたら、わたしは疑も無くその夢を今でも見続けてゐて、例之《たとへ》ば話をしてゐるあなたなんぞを、却つて幻だと思ふでせう。」
「その夢をお話になるには、ひどく興奮なさる虞《おそれ》があるでせうか。」
「なに、なに」と、主人は忙しげに反復して云つて、額に出た玉の汗を拭つた。そして努力して、忘れた事を想ひ出す人のやうに、きれ/″\に話し始めた。話の間に声が叫ぶやうに高くなるかと思へば、又|囁《さゝや》いて聞かせるやうに細くなつた。
「あなたに丈は今話しますが、誰にも言はないやうにして下さい。どうぞ誓言《せいごん》をして下さい。事によつたら却つてそれが本当だかも知れません。わたしは知らないのですが、わたしは人を殺したのです。誤解してはいけませんよ。それはあそこでしたのです。夢の中《うち》です。わたしは逃げ出しました。久しい間方々を迷ひ歩いてゐて木の実を食つてゐました。想つて見れば、山に生えてゐる桜の実でしたよ。それからパンや牛乳を盗みました。牛乳は牧《まき》にゐる牛の乳房からすぐに盗んで飲んだのです。いや。ひどい炎天で、むつとするやうな蒸気が沼から立つてゐました。丁度港
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