の関門を通らうとする時小刀を盗んだと云ふ嫌疑で掴まりました。背の高い、赤毛の商人がわたしを掴まへたのです。人がその男の事をチツスさんと呼んでゐましたよ。わたしは力が脱けたやうで、途方にくれてゐました。赤毛の女が一人ゐて、大声で笑ふ。茶色の毛をした狗が一疋わたしの足元で悲しげに啼いてゐる。そこの往来の石だゝみの上には石竹の花が棄てゝある。武装した兵卒が大勢その前を通り過ぎる。わたしはそこで皆に打たれてゐました。ひどい炎天でしたよ。それから真つ暗な、息の詰まるやうな冷たい処にゐました。あゝ。田畑や、清い泉や、山風の涼しさはどこへ往つたでせう。」
これまで話して、フロルスは口を閉ぢた。そして力の脱けたやうに項垂《うなだ》れた。
医師は「お休なさい」と云つて部屋を出て、差配人に主人の容態を話した。無言の童は目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて口を開《あ》いて、熱心にそれを聞いてゐた。
夕方にフロルスは年の寄つた乳母を呼んだ。乳母はフロルスの前にしやがんで、お伽話や、小さい時の話をしてゐたが、それが種切になつてからは、自分の翳《かす》んだ目で見、遠くなつた耳で聞いた事
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