紙を書いた。
「僕が今君に告げようとする事件は、君には児戯に類するやうに感ぜられるだらう。併し此|瑣事《さじ》が僕の心の安寧と均衡とを奪ふのである。苟《いやし》くも威厳を保つて行かうとする人間の棄て難い安寧と均衡とが奪はれるのである。頃日《このごろ》僕は一人の卑しい男に邂逅《かいこう》した。其人はそれ迄に一度も見たことのない人である。然るにどうも相識の人らしい容貌をしてゐる。若し僕が婆羅門教の輪廻《りんゑ》説を信じてゐるなら、僕は其人に前世で逢つたと思ふだらう。一層不思議なのは、此遭遇の記念が僕の頭の中で勢を逞《たくまし》うして来て、一夜水に漬けて置いた豆のやうにふやけて、僕の安寧を奪ふと云ふ一事である。そこで僕は自分で其人を捜しに出掛けようと思つてゐる。それは自分の弱点を暴露するのが恥かしくて、他人に捜索を頼まうと云ふ決心が附かぬからである。或は此一切の事件は僕が健康を損じてゐる所から生じたのかも知れない。僕は頃日頻に眩暈《めまひ》がする。夜眠ることが出来ない。精神が阻喪して、故なく恐怖に襲はれる。要するに健康が宜しいとは云はれぬからである。僕の邂逅した男は非常に光る灰色の目をしてゐ
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