な詞《ことば》の出ようが無い。あの報告は生活の印象主義者の報告であった。
 花房は八犬伝の犬塚信乃《いぬづかしの》の容体に、少しも破傷風らしい処が無かったのを思い出して、心の中《うち》に可笑《おか》しく思った。
 傍《そば》にいた両親の交《かわ》る交《がわ》る話すのを聞けば、この大切な一人息子は、夏になってから毎日裏の池で泳いでいたということである。体中に掻《か》きむしったような痍《きず》の絶えない男の子であるから、病原菌の浸入口はどこだか分からなかった。
 花房は興味ある casus《カズス》 だと思って、父に頼んでこの病人の治療を一人で受け持った。そしてその経過を見に、度々瓶有村の農家へ、炎天を侵《おか》して出掛けた。途中でひどい夕立に逢《あ》って困った事もある。
 病人は恐ろしい大量の Chloral《クロラアル》 を飲んで平気でいて、とうとう全快してしまった。
 生理的|腫瘍《しゅよう》。秋の末で、南向きの広間の前の庭に、木葉が掃いても掃いても溜《た》まる頃であった。丁度土曜日なので、花房は泊り掛けに父の家へ来て、診察室の西南《にしみなみ》に新しく建て増した亜鉛葺《トタンぶき》
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