半年ばかりも病院で勤めていただろう。それから後は学校教師になって、Laboratorium《ラボラトリウム》 に出入《しゅつにゅう》するばかりで、病人というものを扱った事が無い。それだから花房の記憶には、いつまでも千住の家で、父の代診をした時の事が残っている。それが医学をした花房の医者らしい生活をした短い期間であった。
その花房の記憶に僅《わず》かに残っている事を二つ三つ書く。一体医者の為めには、軽い病人も重い病人も、贅沢薬《ぜいたくぐすり》を飲む人も、病気が死活問題になっている人も、均《ひと》しくこれ casus《カズス》 である。Casus《カズス》 として取り扱って、感動せずに、冷眼に視ている処に医者の強みがある。しかし花房はそういう境界には到らずにしまった。花房はまだ病人が人間に見えているうちに、病人を扱わないようになってしまった。そしてその記憶には唯 Curiosa《クリオザ》 が残っている。作者が漫然と医者の術語を用いて、これに Casuistica《カズイスチカ》 と題するのは、花房の冤枉《えんおう》とする所かも知れない。
落架風《らっかふう》。花房が父に手伝をしようと云ってから、間のない時の事であった。丁度新年で、門口に羽根を衝《つ》いていた、花房の妹の藤子が、きゃっと云って奥の間へ飛び込んで来た。花月新誌の新年号を見ていた花房が、なんだと問うと、恐ろしい顔の病人が来たと云う。どんな顔かと問えば、只食い附きそうな顔をしていたから、二目と見ずに逃げて這入ったと云う。そこへ佐藤という、色の白い、髪を長くしている、越後《えちご》生れの書生が来て花房に云った。
「老先生が一寸《ちょっと》お出《いで》下さるようにと仰《おっし》ゃいますが」
「そうか」
と云って、花房は直ぐに書生と一しょに広間に出た。
春慶塗の、楕円形《だえんけい》をしている卓の向うに、翁はにこにこした顔をして、椅子《いす》に倚《よ》り掛かっていたが、花房に「あの病人を御覧」と云って、顔で方角を示した。
寝台《ねだい》の据えてあるあたりの畳の上に、四十《しじゅう》余りのお上《かみ》さんと、二十《はたち》ばかりの青年とが据わっている。藤子が食い付きそうだと云ったのは、この青年の顔であった。
色の蒼白《あおじろ》い、面長《おもなが》な男である。下顎《したあご》を後下方《こうかほう》へ引っ張っているように、口を開《あ》いているので、その長い顔が殆《ほとん》ど二倍の長さに引き延ばされている。絶えず涎《よだれ》が垂れるので、畳んだ手拭で腮《あご》を拭いている。顔位の狭い面積の処で、一部を強く引っ張れば、全体の形が変って来る。醜くくはない顔の大きい目が、外眦《がいさい》を引き下げられて、異様に開《ひら》いて、物に驚いたように正面を凝視している。藤子が食い付きそうだと云ったのも無理は無い。
附き添って来たお上さんは、目の縁《ふち》を赤くして、涙声で一度翁に訴えた通りを又花房に訴えた。
お上さんの内には昨夜《ゆうべ》骨牌会《かるたかい》があった。息子さんは誰《たれ》やらと札の引張合いをして勝ったのが愉快だというので、大声に笑った拍子に、顎が両方一度に脱《はず》れた。それから大騒ぎになって、近所の医者に見て貰ったが、嵌《は》めてはくれなかった。このままで直らなかったらどうしようというので、息子よりはお上さんが心配して、とうとう寐《ね》られなかったというのである。
「どうだね」
と、翁は微笑《ほほえ》みながら、若い学士の顔を見て云った。
「そうですね。診断は僕もお上さんに同意します。両側下顎脱臼《りょうそくかがくだっきゅう》です。昨夜《ゆうべ》脱臼したのなら、直ぐに整復が出来る見込です」
「遣《や》って御覧」
花房は佐藤にガアゼを持って来させて、両手の拇指《おやゆび》を厚く巻いて、それを口に挿《さ》し入れて、下顎を左右二箇所で押えたと思うと、後部を下へぐっと押し下げた。手を緩《ゆる》めると、顎は見事に嵌まってしまった。
二十の涎繰《よだれく》りは、今まで腮を押えていた手拭で涙を拭いた。お上さんも袂《たもと》から手拭を出して嬉《うれ》し涙を拭いた。
花房はしたり顔に父の顔を見た。父は相変らず微笑んでいる。
「解剖を知っておるだけの事はあるのう。始てのようではなかった」
親子が喜び勇んで帰った迹《あと》で、翁は語《ことば》を続《つ》いでこう云った。
「下顎の脱臼は昔は落架風と云って、或る大家は整復の秘密を人に見られんように、大風炉敷《おおぶろしき》を病人の頭から被《かぶ》せて置いて、術を施したものだよ。骨の形さえ知っていれば秘密は無い。皿の前の下へ向いて飛び出している処を、背後《うしろ》へ越させるだけの事だ。学問は難有《ありがた》いものじゃのう」
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